5分でわかる!パルティアとササン朝
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この動画の要点まとめ
ポイント
パルティアの特徴/アルサケスが建国、都はクテシフォン
地図中の斜線で示されたのがパルティアの最大領土です。
パルティアはメソポタミアにかかる辺りから、イラン高原を抱え込みインドの辺りまでを領土としました。
パルティアを建国したのは アルサケス という人物です。
彼の名前は東西交易を通じて中国にまで伝わり、中国では 安息 と呼ばれていました。
パルティアを支えた都が クテシフォン です。
クテシフォンは東西交易の中継地として栄え、東西から多くの人やモノがやってきました。
東西交易で栄えたパルティアは、常に周りの大国から狙われていました。
そのひとつが ローマ です。
当時急速に領土を拡大していたローマは、パルティアを圧迫しました。
そして、圧迫を受け混乱するパルティアに ササン朝ペルシア が侵入し、パルティアは滅んでしまいました。
ササン朝ペルシアの特徴/アルダシール1世が建国、ゾロアスター教を国教化
パルティアのあとにイランを支配したのは ササン朝ペルシア です。
ササン朝の領土は、パルティアの領土とほぼ変わりません。
パルティアと同様、ササン朝も東西交易の中心地として繁栄しました。
ササン朝を建国したのは アルダシール1世 です。
彼は、ササン朝をまとめるために ある工夫 をします。
ササン朝もパルティアも、東西交易でさまざまな人びとが訪れるため、
経済的には繁栄するものの、なかなか国としての団結が強まりませんでした。
そこでアルダシール1世が考えたのが ゾロアスター教の国教化 。
同じ宗教を信仰させることで仲間意識を生み出そうとしたのです!
アルダシール1世の息子である シャープール1世 の時代には、
ササン朝はイラン地域をねらう対外勢力と争いました。
東ではインドの クシャーナ朝 を破り、西ではローマの軍人皇帝 ウァレリアヌス を捕まえました。
ホスロー1世のもとで最盛期をむかえる!
続いて、ササン朝ペルシア最盛期の王 ホスロー1世 の時代を見てみましょう。
ホスロー1世が活躍した6世紀にも、シャープール1世の時代と同じく 対外勢力との抗争 がありました。
彼は 突厥 (とっけつ)と同盟を結び エフタル を滅ぼしました。
さらに東ローマ皇帝 ユスティニアヌス大帝 と争い、アンティオキアを占領したのです。
東西の強敵を倒したササン朝でしたが、この後 突如興った新興宗教勢力に敗れてしまいます。
ニハーヴァンドの戦い です。
この戦いでササン朝はイスラーム勢力に敗れ、やがて滅亡しました。
ササン朝の文化/マニ教の成立とササン朝美術
最後に ササン朝の文化 を確認しておきましょう。
ササン朝の時代には マニ教 という宗教が成立しました。
マニ という人がつくったのでマニ教と呼ばれています。
マニ教は ゾロアスター教にキリスト教と仏教を融合させて成立した宗教です。
徹底した善悪二元論、禁欲主義、偶像否定 などを特徴としています。
ここで問題が一つあります。
ササン朝はゾロアスター教を国教にしていましたよね。
マニ教はゾロアスター教をいじってできた(仏教やキリスト教を加えた)宗教だったので、ササン朝から弾圧や迫害を受けます。
迫害を受けたマニ教徒は海外に逃げます。
その結果、マニ教は中国やヨーロッパ各地に広がっていきました。
続いて ササン朝美術 に注目してみましょう。
ササン朝の時代に発展した、鉄器やガラス器などの美術をササン朝美術といいます。
こちらを見てください。
一番左のイラストは ササン朝時代につくられた水瓶 です。
真ん中は中国、右側は日本の瓶ですが、どれも良く似ていますよね。
ササン朝の美術が中国に伝わり、最終的に日本にまで伝わったことがわかります。
東西交易の中継地として栄えたササン朝の美術は、交易路を通じて日本にまで伝わったことをおさえておきましょう。
ポイントの2つ目は「パルティアとササン朝」です。
古代イランに登場する2つの国を勉強します。
まずは紀元前3世紀に登場した パルティア です。
こちらを見てください。