5分でわかる!周の支配は血縁関係を重視した統治
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この動画の要点まとめ
ポイント
周王朝は、別名 西周 ともいいます。
どうして「西周」と呼ぶのかは、ポイントの最後で説明します。
まずは周について、大事な内容を確認していきましょう。
周は 鎬京 (こうけい)を都とする王朝で、 渭水 (いすい)という場所に誕生しました。
地図に示されているように、黄河を取り囲む範囲に広がりを見せました。
周の統治方法/血縁を重視する封建制!
この広い領土に対し、西周は 封建 ( 封建制 )と呼ばれる統治体制をとりました。
周の王は、自分の一族などに 封土 と呼ばれる領土を与え、世襲の 諸侯 とします。
そして 各地の統治を諸侯に任せた のです。
今の日本でたとえると、王が47の都道府県を自分の一族に与え、
知事として統治にあたらせるというイメージです。
諸侯とは都道府県知事のようなものだと考えてください。
宗法の制定/宗族内で守るべき規範を定めた
周の社会では 宗法 (そうほう)が重視されました。
宗族内で守るべき規範 のことを宗法といいます。
あまり聞き慣れない言葉ですが、「宗族」とは何でしょうか?
宗族とは 父方の一族 を指します。
中国では、父方の一族である宗族が重視されていました。
その宗族内で守るべきルールが宗法なのです。
具体例を挙げると、本家が分家より偉い、長男が財産を相続する、
同じ苗字同士で結婚してはいけない、といった内容が含まれていました。
異民族の侵入により、周の都が陥落する…
血縁を重視する統治を行った周王朝。
最後は 異民族の侵入 により 都が陥落してしまいます。
王族は慌てて東へ逃げ出し、新たな都を設置しました。
ここで、ポイント2で学んだ「 易姓革命 」を思い出してください。
中国で王朝が変わるのは 王の名字が変わったとき でしたね。
周の王は逃亡しましたが、都を変えただけで 王が変わったわけではありません。
そのため 逃げる前を西周 、 東に逃げた後を東周 と呼び分けています。
「周」という国名が変わっていないのは 王が変わっていないからです。
さてみなさん、ここで考えてみてください。
周の王が逃げ出す姿を見た諸侯たちは、今までどおりに王に従うと思いますか?
もちろんNOです。
この後、周では諸侯が反発するようになります。
封建制は 王の権力を弱くするきっかけにもなった 制度なのです。
ポイントの3つ目は「周の統治」です。
殷を倒して成立した 周 の特徴や、その統治方法に注目します。