5分でわかる!後漢の「不思議」
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この動画の要点まとめ
ポイント
この王朝は、なんと 200年近くも存続しました。
新王朝が15年足らずで滅亡したのとは対照的ですね。
今回は、後漢が200年も続いた理由に注目します。
劉秀が後漢を建国!
後漢を建国した人物を 劉秀 といいます。
皇帝としての名前は 光武帝 です。
彼は都を 洛陽 に置きました。
後漢の建国にあたり、光武帝は 豪族の力に頼りました。
政治に口出しする 外戚 を、地方の有力者である豪族の力を借りて排除したのです。
豪族の力を借りたという事実から、 後漢の皇帝権力は弱かったことが伺えます。
皇帝の力が強ければ、力を借りる必要はありません。
後漢の皇帝としてテストに出題されるのは、基本的に 光武帝だけです。
他の皇帝は、それほど大きな業績を残していないと思ってください。
皇帝の権力が弱いのに、後漢が200年も続いた理由は?
ここで不思議なことがあります。
皇帝権力が弱いにもかかわらず、後漢は約200年も存続したのです。
そこにはどんな秘密があったのでしょうか?
左側の地図を見てください。
後漢が長続きした秘密はずばり、 東西交易 にあります。
西アジア地域との交易により、商品やお金がたくさん入ってきたのです。
当時、西アジアのイランには パルティア ( 安息 )という国がありました。
同時代、インドには クシャーナ朝 が成立していました。
クシャーナ朝も東西交易の中継地として栄えた王朝です。
東西交易を通じた収入により、後漢は長続きしました。
日本との交流
光武帝の時代には 倭人 との交流がありました。
倭人は日本人、または日本そのものを指します。
後漢は日本に「 漢委奴国王 」と刻まれた 金印 を授けました。
班超が西域都護府に就任
東西交易で栄えた後漢は、西域とのつながりを重視しました。
そこで、西域の警備を行う 西域都護 に、 班超 という人物を任命します。
班超は、部下の甘英を 大秦 (ローマ帝国)に派遣しました。
これは失敗に終わりましたが、一方で大秦からの使者が中国側にやってきます。
大秦王安敦 の使者が、ベトナムに置かれた 日南郡 に到着したのです。
「大秦王安敦」とは 五賢帝最後の皇帝 のことです。
その名も マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝 でしたね。
2世紀後半、社会不安が拡大する...
2世紀後半になると、東西交易が衰退し、後漢の支配に陰りが見えてきます。
社会不安が拡大する中、166年と169年に 党錮の禁 と呼ばれる事件が発生しました。
皇帝の世話役である宦官が、権力ほしさに官僚を逮捕し、処刑した事件です。
皇帝の世話役が、権力ほしさにクーデタを起こす。
後漢の人びとの不安は高まります。
そしてついに、184年には大規模な農民反乱が発生します。
黄巾の乱 です。
太平道の創始者、張角が指導した黄巾の乱
黄巾の乱を指導したのは、 太平道 という宗教を創始した 張角 です。
彼の指導の下、反乱の波は中国北部一帯に広がりました。
最終的には、豪族の協力を得た後漢政府軍によって、この反乱は鎮圧されます。
反乱の鎮圧に協力した豪族たちは、やがて各地で自立するようになります。
後漢の時代が終わり、 中国は群雄割拠の時代を迎えることになります。
ポイントの2つ目は「後漢の成立と発展」です。
前回の授業で学んだ 前漢 、ポイント1で紹介した 新 に続いて、
今度は 後漢 王朝が誕生します。