5分でわかる!中国の南北をつなぐ大動脈
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この動画の要点まとめ
ポイント
文帝の後に登場するのが、第2代の 煬帝 (ようだい)です。
こちらを見てください。
大運河を建設し、中国の北部と南部を接続!
煬帝の事績として重要なのが、 大運河の造営 です。
地図に示されているように、中国には 長江や黄河などの大きな川が流れています。
彼は人工的に水を引くことで、これらの川を接続したのです。
魏晋南北朝時代に中国は南北に分裂していましたが、両地域ともに 土地開発が行なわれました。
特に南部は中国人がたくさん移り住んだため、開発が進みました。
中国統一に成功した煬帝は、南北をスムーズに接続したいと考えたのです。
大運河をつくり川と川を接続することで、 人びとは船で自由に行き来できるようになりました。
ちなみに、 この大運河は現在でも中国で使われています。
煬帝はあまり人気がなかった!?
大運河の造営という、歴史に残る事業に着手した煬帝。
しかし、彼はあまり人気がありませんでした。
いったいなぜでしょうか?
当時、中国の東北部に 高句麗 という国がありました。
煬帝は、計3回にわたり 高句麗遠征 を行ったのですが、全て失敗に終わりました。
大運河を造営するために働いたのは、 庶民 です。
彼らは労働力としてこき使われた上に、戦争に兵士として参加させられたのです。
これだけ庶民に負担を強いておきながら、高句麗遠征は全て失敗。
これが、煬帝が不人気の理由なのです。
庶民たちが反乱を起こしたことをきっかけに、結局煬帝は殺害されてしまいました。
大運河を造営したものの、庶民からの反発を招いた煬帝。
中国の歴史書は、彼を評価していません。
煬帝の帝を「だい」と詠むのは、わざと間違えているのです。
中国から日本に煬帝の名前を伝えるとき、わざと間違った名前で呼ばせることで、
「こいつは皇帝の器ではない」ということを表したのです。
また「煬」という字は「天に逆らい民を虐げた愚か者」という意味を表します。
民衆をこき使い、遠征に失敗した煬帝は、歴史的にも評価が低いのです。
隋の滅亡、唐の建国
煬帝が殺害された後、隋の武将であった 李淵(高祖) が登場します。
彼は 唐 王朝を建国することになります。
唐王朝については、次の授業で学習します。
まずは隋の2代皇帝、煬帝の事績をしっかり覚えておきましょう。
ポイントの2つ目は「煬帝の政策」です。
ポイント1では、隋の初代皇帝 文帝 について勉強しました。
彼は 中国の再統一を果たした 皇帝でしたね。