5分でわかる!なぜフランク王国は長生きしたのか?
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「フランク王国が長生きした理由」です。
前回の授業では、ヨーロッパ各地に成立した ゲルマン人国家 を紹介しました。その多くはすぐに消滅してしまいましたが、例外的に長生きしたゲルマン人国家があったのです。それが、この授業のテーマである フランク王国 です。
なぜフランク王国は長続きしたのでしょうか?
これからその秘密に迫ります!
フランク王国前半|メロヴィング朝の時代
何百年も続いたフランク王国は、その前半と後半とで呼び名が変わります。
前半のフランク王国を メロヴィング朝 (481~751)と呼びます。
後半の呼び名は後で紹介します。
メロヴィング朝を建国したのは クローヴィス という人物でした。
メロヴィング朝の領土は以下の範囲です。
クローヴィスの改宗/円滑な統治のためにアリウス派へ!
フランク王国が長い治世を維持できたのは、3つの要因によります。そのうちの1つが、496年の クローヴィスの改宗 です。
ゲルマン人の多くは キリスト教アリウス派 を信仰していましたが、メロヴィング朝の建国者クローヴィスは アタナシウス派 に改宗します。その理由は 支配地域の多くがアタナシウス派だったからです。 支配地域からの反発をおさえるために、アタナシウス派に改宗したというわけです。
トゥール=ポワティエ間の戦いでカール=マルテルが活躍
クローヴィスの死後、 宮宰 (マヨル=ドムス)という役職が台頭します。これは行政・財政面のリーダーとして、王をサポートする役職です。この役職は、次第に カロリング家 が世襲するようになりました。
宮宰が特に活躍したのが、732年の トゥール=ポワティエ間の戦い です。宮宰の カール=マルテル がリーダーシップを発揮し、ウマイヤ朝の軍勢を退けました。ウマイヤ朝を撃破したカール=マルテルは イスラームの侵入からキリスト教世界を守った英雄 として、高く評価されました。
こうしてフランク王国は、西ローマ帝国滅亡後の「 キリスト教世界の守護者 」という役割を持ちました。これが、フランク王国が長生きできた2つめの理由となります。
フランク王国後半|カロリング朝の時代
この後、751年からは カロリング家 が王権を握ります。フランク王国の後半、 カロリング朝 (751~843~987)の始まりです。カロリング朝の建国者は、カール=マルテルの息子の ピピン という人物でした。
ピピンは756年にランゴバルド王国を攻撃して、 ラヴェンナ 地方を獲得します。そしてこの地域を ローマ教皇へ献上したのです。 この出来事を ピピンの寄進 といいます。
領土をもらったローマ教皇は、カロリング朝に好意的になります。こうしてカロリング朝は ローマ教皇と密接な関係を築いたのです。 これが、フランク王国が長生きできた3つ目の理由になります。
以上、フランク王国が長生き出来た3つの理由を紹介しました。
しっかり覚えておきましょう。
中世ヨーロッパ世界の2回目。
今回は「フランク王国の発展」について学習します。