5分でわかる!フランク王国の分裂
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「フランク王国の分裂」です。
前回一緒に勉強した フランク王国 を覚えていますか?
このフランク王国が、今回なんと 分裂してしまいます!
フランク王国の分裂について、一緒に見ていきましょう。
843年、ヴェルダン条約の締結
814年にカール大帝が亡くなると、彼の子孫は領土をめぐって争いました。この争いが原因で、フランク王国は分裂してしまうのです。
843年に ヴェルダン条約 が締結され、フランク王国は3つに分裂することが決まりました。 中部フランク・東フランク・西フランク の3つです。こちらを見てください。
ご覧の通り、フランク王国はまず 中部フランク・東フランク・西フランク に分かれました。その後は、東フランクと西フランクが中部フランクの領土を一部奪います。870年の メルセン条約 によって、中部フランクの一部が東西フランクに割譲されたのです。
領土が縮小した中部フランクと、領土が拡大した東フランク・西フランク。この3つの国は、それぞれ現在の イタリア・ドイツ・フランス の原形となりました。
分裂した3国は、この後どういう歴史をたどったのでしょうか?まずは東フランクに注目しましょう。
東フランクのその後/神聖ローマ帝国の成立!
東フランクでは カロリング朝が断絶 し、新しく ザクセン家 から王が選ばれるようになります。ザクセン家から王が選ばれるため、この時期の東フランクを ザクセン朝 と呼びます。
ザクセン家出身の王様に、 オットー1世 という人物がいます。彼は、東から侵入してきた アジア系遊牧民のマジャール人を撃退 したのです。オットー1世の評判は高まり、962年に教皇から ローマ皇帝位を授与 されます。これ以降、東ローマ帝国は 神聖ローマ帝国 と呼ばれるようになるのです。
西フランクと中部フランクのその後
西フランクでは、カロリング家が断絶後、パリ伯 ユーグ=カペー が国王に選出されます。中部フランク(イタリア)では、カロリング家が断絶した後、長い間 分裂状態が続きました。
以上、フランク王国の分裂を説明しました。特に大事なのが 東フランク です。東フランクが 神聖ローマ帝国 と呼ばれるようになったこと、しっかり覚えておきましょう。
中世ヨーロッパ世界の成立の3回目。
今回は「第2次民族移動の時代」について学習します。