5分でわかる!イギリスの王様は最初から権力が強い
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「中世イギリスの歴史」です。
まずは イギリスの歴史 に注目します。
イギリスでは、十字軍の前から王の権力が強かった!
イギリスは、中世ヨーロッパ諸国の中では例外的に 国王が十字軍の前から強い権力を持っていました。 他の国では 十字軍遠征失敗で諸侯・騎士が没落 し、その後でようやく王の権力が強くなったのです。
いったいなぜ、イギリスでは王の権力が強かったのでしょうか?その秘密を探るべく、 イギリスの2つの王朝 に注目します。
ノルマン朝の時代
最初に紹介するのは ノルマン朝 (1066~1154)です。ノルマン朝は ウィリアム1世 によって建国されました。
ウィリアム1世は、その出自に特徴があります。実は、彼は イギリス出身ではありませんでした 。 ロロ が建国した、 北フランスのノルマンディー公国 出身だったのです。
ウィリアム1世は部下を率いてイギリスを征服し、ノルマン朝を建国します。この事績から、彼は「 征服王 」とも呼ばれます。 武力で制圧して建国したからこそ、国王の権力が強いわけです。 彼は 出身国フランスの統治方法 を導入し、 強力な封建王政を確立しました。
授業の冒頭で、 イギリスは最初から王権が強かった とお伝えしましたよね。その理由はここにあります。 ウィリアム1世が武力でイギリスを征服し、ノルマン朝を建国した からこそ、国王の権力が強かったというわけです。
プランタジネット朝の時代
ノルマン朝の後に成立したのが プランタジネット朝 (1154~1399)です。プランタジネット朝の初代国王 ヘンリ2世 は、非常に広大な領土を獲得しました。地図で確認しましょう。
ヘンリ2世は、フランスの貴族 アンジュー家 の出身でした。もともと大陸部にも領土を持っていた上に、イギリス王に即位した後は、イギリスの領土も支配したのです。
ヘンリ2世は、イギリスの領土に加え フランス西部大半を領有しました。 これに反発したのが フランス王 です。フランス王にとっては、国内が次々にイギリス領になっていくのが不愉快だったのです。このように、ヘンリ2世の即位後 イギリスとフランスの関係は悪化しました。
広大な領土を失った「ジョン王」
ヘンリ2世の後には ジョン王 という王様が登場します。彼は、正直言って ダメダメな王様でした。 1209年、教皇権絶頂期の教皇 インノケンティウス3世 に破門されます。1214年には仏王 フィリップ2世 に敗れ、大陸イギリス領土の大部分を失いました。
ジョン王の失政に怒った人々は、 国王の力を制限しようとしました。 その結果、1215年、ジョン王は貴族の圧力を受けて 大憲章 ( マグナ=カルタ )を承認することになりました。この憲章により 課税には貴族の同意が必要となりました。
ヘンリ3世の時代、シモン=ド=モンフォールの反乱が発生!
ジョン王の後を継いだのが ヘンリ3世 です。彼の時代には、貴族の シモン=ド=モンフォール が反乱を起こします。
反乱を主導したシモン=ド=モンフォールは、1265年に 諮問議会 を開きます。この議会には、貴族や聖職者・騎士など さまざまな身分の代表者 が集まり、国王の政治を審議・評価したのです。これが、現在まで続く イギリス議会の起源になりました。
エドワード1世と模範議会/エドワード3世と二院制議会
1272年に即位した エドワード1世 の時代には、 模範議会 が召集されました。これ以降、貴族・聖職者・騎士・各都市の代表が集まる 身分制議会 が、定期的に開催されるようになりました。
1327年に即位した エドワード3世 の時代には、 上院 (貴族院)と 下院 (庶民院)で構成される 二院制議会 が確立します。上院は 貴族と聖職者 、下院は 各州の騎士と各都市の代表 で構成されました。
以上、中世イギリスの歴史を説明しました。中世のイギリスでは 十字軍の前から国王の権力が強かった ため、政治能力が低い王様が登場すれば、国がピンチになってしまいます。そこで、貴族たちは 国王の権力をなるべく制限しようとしたのです。 この流れをしっかり覚えておきましょう。
中世ヨーロッパ世界の各国史、第1回。
今回は「イギリス・フランス史」です。