5分でわかる!領土がどんどん小さくなる!
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この動画の要点まとめ
ポイント
6世紀後半以降、異民族の侵入に苦しむ
ビザンツ帝国の最大領土を形成したのは ユスティニアヌス大帝 でした。彼の死後、ビザンツ帝国は 異民族の侵入に苦しむことになります。 例えば ランゴバルド族 や ササン朝 、アヴァール人やブルガール人などの アジア系民族 、そして イスラーム勢力 が、ビザンツ帝国を脅かすようになったのです。こちらを見てください。
ポイント1で紹介した最大領土から、大幅に縮小していますね。 外敵の圧力 によりビザンツ帝国の領土は縮小してしまったのです。
国家を守るための工夫|軍管区制と屯田兵制
このままだと国が滅びるかもしれない。危機感を覚えたビザンツ帝国では 国を守るための工夫 が登場します。それが 軍管区制 と 屯田兵制 の2つをセットで実施する、という工夫でした。
軍管区制(テマ制)とは、領土をいくつかの軍管区に分け、 皇帝が任命した司令官に各区を統括させる制度 です。古代中国の王朝・秦の 郡県制 と似た制度です。
屯田兵制とは、農民に土地を与える代わりに 兵役の義務を負わせる 制度です。土地をもらった農民は、自分の財産である土地を守るために必死に戦うようになりました。
また、領土が縮小したビザンツ帝国では、人口の多くを ギリシア人 が占めるようになりました。これに伴い、ビザンツ帝国の公用語は ラテン語 から ギリシア語 に変わりました。さらに、キリスト教の一派 ギリシア正教会 が、皇帝の保護のもとで発展しました。
レオン3世が聖像禁止令を発布!
西暦717年には、 レオン3世 がビザンツ皇帝に即位します。彼は、イスラーム勢力の侵入に対抗しようと 聖像禁止令 を発布しました。イスラーム勢力がビザンツ帝国に侵攻する理由の一つとして、キリスト教徒の 聖像崇拝 があったのです。
イスラーム教は 偶像崇拝を固く禁じています。 唯一神アッラーや、預言者ムハンマドを絵や像で表現するのは厳禁です。そこでレオン3世は 聖像禁止令 を発布し、イスラーム勢力が侵攻してくる口実を減らそうとしたのです。
さらに、聖像禁止令にはもう一つの狙いがありました。イスラーム勢力との戦いで疲弊していたビザンツ帝国は、聖像禁止令に従わない修道院や教会から 財産を没収 し、兵士や財産を確保しようとしたのです。
ローマ教会は猛反発!聖像崇拝論争へと発展
レオン3世の聖像禁止令に対し、聖像を使用して布教活動をしていた ローマ=カトリック教会 は猛反発しました。8~9世紀にかけて、ローマ教会とビザンツ皇帝は聖像の是非をめぐって対立することになるのです。この対立を 聖像崇拝論争 といいます。
外敵の侵入を受け、ビザンツ帝国の領土は縮小しました。ビザンツ帝国は国を守るために 軍管区制 と 屯田兵制 を実施しました。さらにイスラーム勢力に対抗するため、皇帝レオン3世は 聖像禁止令 を発布しました。聖像禁止令をめぐっては、ローマ教会との間で対立が発生することになります。以上の流れをしっかり覚えておきましょう。
ポイントの2つ目は「ビザンツ帝国の領土縮小」です。
ポイント1は、ビザンツ帝国が 最大領土を形成する お話でした。ポイント2では、その領土が 縮小していく様子 を学習します。