5分でわかる!元の一大遠征!
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この動画の要点まとめ
ポイント
フビライ=ハン、国号を「大元」に改称
フビライは、支持者を集めて クリルタイ で即位しました。その後、都を 大都 (現在の北京)に移します。さらに、モンゴル帝国の国号を「大元」と改称しました。正式な国号は「大元」ですが、略称として「 元 」という呼び名が使われます。
オゴタイの孫「ハイドゥ」が反乱を起こす!
ポイント2で紹介した オゴタイ=ハン には、 ハイドゥ という孫がいました。彼はフビライに反旗を翻し、14世紀初めに反乱を起こしたのです。この反乱は ハイドゥの乱 と呼ばれ、 モンゴル帝国の分裂を招くことになりました。
積極的な対外遠征/フビライの狙いは?
フビライは、これまでの指導者と同じく 対外遠征を継続します。 1276年には、2つ前の授業で学んだ中国の 南宋 王朝を、1299年には、ミャンマーを支配していた パガン朝 を、相次いで征服します。そしてフビライ=ハンは 日本にも遠征を行いました。 1274年と1281年の2度、大軍を日本へ派遣しましたが どちらも失敗に終わりました。 日本史では、このできごとを 元寇 (げんこう)と呼びます。
フビライは13世紀後半に ベトナム と ジャワ にも遠征しました。しかしベトナムでは 陳朝 に、ジャワでは マジャパヒト王国 に敗れ、いずれも失敗に終わりました。
なぜ、フビライはこんなに対外遠征を繰り返したのでしょうか?こちらを見てください。
フビライ=ハンがミャンマーやベトナムに侵攻した理由。それは 海上の交易ルートを支配するため です。ポイント2で紹介したモンケ=ハンの時代までに、モンゴル帝国はモンゴル高原を根拠地として、ヨーロッパからアジアにまたがる広大な領土を支配しました。
そしてフビライ=ハンは 南宋 を滅ぼし、中国を完全に征服しました。これで 東西を結ぶ陸上ルートがすっぽりモンゴルの支配下に入ります。 残るは、東南アジアやインドを経由する海上ルートのみ。フビライ=ハンは陸上だけでなく、 海上でもアジアとヨーロッパを接続するため に、ベトナムやジャワ・日本に侵攻したのです。
ポイントの3つ目は「フビライ=ハンの時代」です。
ポイント2で紹介したモンケ=ハンの死後、彼の弟 フビライ がモンゴルのリーダーに選出されました。 フビライ=ハン の登場です。ポイント3では フビライ=ハンの対外遠征 に注目します。