5分でわかる!中国史の皇帝のなかでもNo.1
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「康熙帝の時代」です。3人の皇帝のうち、まずは 康熙帝 (こうきてい)に注目します。
中国の歴史に残る名君!康熙帝
康熙帝 は、 1661年~1722年 の期間に清の皇帝位につきました。なんと 61年もの間、皇帝であり続けたのです。 歴代中国皇帝の中でも、これだけ在位期間が長かったのは康熙帝だけです。
在位期間が長かっただけではありません。彼は 優れた統治政策 を行い、中国史上の名君として名を残しています。いったいどんな政策だったのか、確認しましょう。
抵抗勢力をおさえつける!
康熙帝は 満州人(女真族)による支配 を確立しようとしました。これまでの授業で説明したように、清は中国人(漢民族)の国家ではありません。中国人にとって「異民族」にあたる 満州人の国家 なのです。
中国人を野放しにしておけば、いずれは自分たちに反抗するかもしれない。そう考えた康熙帝は、 藩王の勢力削減 を行いました。藩王とは 清に協力した漢人武将 のことです。前回の授業で登場した 呉三桂 などの人物が藩王に該当します。
中国南部で一定の自治を行っていた藩王に対して、康熙帝は彼らの領土削減を宣言しました。当然藩王たちは反発し、1673年に 三藩の乱 を起こします。しかし、康熙帝は見事にこの反乱を鎮圧しました。
1683年には「反清復明」を掲げる 鄭氏台湾 も征服し、清王朝に抵抗する勢力を一気におさえつけたのです。
新しい税制!「地丁銀制」を導入
康熙帝の時代には 新しい税制度 も登場します。明代の 一条鞭法 の代わりに 地丁銀 制を採用したのです。地丁銀制は、地銀(土地税)の中に丁税(人頭税)を繰り込み、一括で銀納する制度です。簡単に言うと、土地税を少し値上げする代わりに 人頭税を事実上廃止する制度 でした。
事実上人頭税が廃止されたことは、中国の 人口増加 につながりました。人が増えても税金が取られなくなったので、人びとはたくさん子供を産むようになったのです。
ロシアとの国境を画定!「ネルチンスク条約」
1689年、康熙帝はロシア皇帝と ネルチンスク条約 を結びました。当時のロシア皇帝 ピョートル1世 と、 中国とロシアの国境を画定するため に条約を結んだのです。
ロシアとの国境画定に加え、1696年には 外モンゴルを併合 するなど、清は領土を拡大していきました。
「典礼問題」をめぐり、イエズス会以外のキリスト教布教を禁止
康熙帝の時代には「 典礼問題 」が発生しました。「典礼」とは 祖先崇拝 や 孔子礼拝 といった儀礼のことです。中国では、自らの祖先や儒学の創始者である孔子を敬う習慣が、伝統的な儀礼として定着していました。
明の末期以降、中国で布教を行っていた イエズス会 というグループは、中国の伝統的な儀礼である典礼を認めていました。しかし、後から中国にやってきた別のグループがイエズス会を批判したのです。キリスト教は 一神教 の宗教。本来なら、祖先崇拝や孔子礼拝は認めてはいけないのです。中国への布教のために典礼を認めるイエズス会のやり方を、他のグループは批判し、ローマ教皇にまで訴えました。
典礼をめぐっては、さまざまな論争が行われました。結局、康熙帝は1711年に イエズス会以外の布教を禁止 しました。典礼を認めるイエズス会の布教は認め、その他の宣教師はすべて追放したのです。
以上、康熙帝の事績を紹介しました。
康熙帝が皇帝であり続けた61年間、清は比較的平和で安定していました。康熙帝は現在でも、中国の歴史に残る名君として高く評価されています。彼の統治政策をしっかり覚えておきましょう。
明・清の時代、第4回。
今回は「清の全盛期」についてのお話です。
清の全盛期 を築いた 3人の皇帝 を紹介します。