5分でわかる!ドイツ三十年戦争はその後のヨーロッパを変えた!
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この動画の要点まとめ
ポイント
ドイツ三十年戦争のきっかけは?
1618年、ドイツで 三十年戦争 が起こりました。当時のドイツは 神聖ローマ帝国 と呼ばれ、 ハプスブルク家 が支配していました。
三十年戦争の発端となったのは、神聖ローマ帝国の一部を構成する ベーメン 王国で起きた反乱です。ベーメンには 新教徒 が多かったのですが、新しく王位に就いたハプスブルク家出身の人物が、なんと カトリック信仰を強制したのです。
ベーメンの人びとは当然反発し、1618年に ベーメン反乱 が起こりました。ベーメン反乱を支援しようと周囲の国々が次々に参戦したことで、三十年戦争へと発展していったのです。
デンマーク、スウェーデン、フランスが参戦!
戦争が始まると、複数の外国勢力が介入してきました。1625年には、プロテスタント国家の デンマーク が介入し、ベーメンを支援します。しかしデンマーク軍は、神聖ローマ帝国の傭兵隊隊長 ヴァレンシュタイン に敗北しました。
1630年には、同じくプロテスタント国家の スウェーデン が介入。国王 グスタフ=アドルフ のもとでベーメンを支援しました。
彼は神聖ローマのヴァレンシュタインを破ったのですが、途中で戦死してしまいます。王を失ったことで、スウェーデンも撤退を余儀なくされました。
カトリック側(神聖ローマ帝国)優位で戦況が進む中、1635年には フランス が参戦しました。
フランス国内には新教徒ユグノーもいたものの、大多数を占めるのは カトリック (旧教徒)でした。当然カトリックの国である神聖ローマ帝国の味方をするのかと思いきや…なんとフランスは 新教徒側であるベーメンを支援しました。 いったいなぜでしょうか?
宰相リシュリュー、宗教よりハプスブルク家打倒を優先!
三十年戦争への参戦を決めたフランスの宰相 リシュリュー は、 神聖ローマ帝国のハプスブルク家が大嫌いでした。 イタリア戦争で争って以来、ハプスブルク家と厳しく対立していたのです。
リシュリューは三十年戦争を ハプスブルク家打倒の好機 ととらえ、宗教の違いを無視してベーメンを支援したのです。フランスが参戦したことで、新教徒側は一気に有利になりました。
三十年戦争の終結/ウェストファリア条約が結ばれた
三十年戦争は、1648年の ウェストファリア条約 締結によって終結しました。基本的には アウクスブルクの宗教和議 を再確認する内容でしたが、別途 カルヴァン派の公認 が追加されました。さらに スイスとオランダの独立 が国際的に承認されたのです。
ウェストファリア条約により、領土の変更も行われました。神聖ローマ帝国の領土が、戦争に勝利した国々に割譲されたのです。
例えばフランスが アルザス 地方を、スウェーデンが バルト海南岸 を獲得することが定められました。
神聖ローマ帝国は有名無実化/主権国家体制の確立につながった
神聖ローマ帝国の中には、たくさんの 領邦 がありました。領邦とは、各地の諸侯が支配する領土のことです。ウェストファリア条約によって、帝国内の領邦にほぼ完全な 主権 が承認されました。
もはや皇帝の命令は各地に届かず、領邦がそれぞれに政治を行うようになったのです。これを 神聖ローマ帝国の有名無実化 と表現します。
ウェストファリア条約によって、神聖ローマ帝国の領邦は、独立し主権を持つ 領邦国家 として承認されました。これが、後のヨーロッパにおける 主権国家体制 の確立につながるのです。
今回はドイツ三十年戦争の経過と、その終末について学習しました。後のヨーロッパに与えた影響とあわせて、しっかりと覚えておきましょう。
ポイントの2つ目は、「ドイツ三十年戦争」です。
ポイント1では フランス で起きた宗教戦争を扱いました。今度は ドイツ です。ドイツで発生し、後のヨーロッパに大きな影響を与えた「 三十年戦争 」について勉強します。