5分でわかる!スペインは「たまたま」絶対王政を完成できた!?
- ポイント
- ポイント
- 練習
この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「スペインの絶対王政」です。
今回の授業から、各国の絶対王政の歴史を勉強します。まずは スペイン です。ポイント1では スペイン絶対王政の始まりと終わり について説明します。
実は、スペインが絶対王政を完成させられたのは「たまたま」でした。偶然の要素が複数重なり、幸運にも絶対王政を築くことができたのです。
国王カルロス1世は、家柄に恵まれていた!
1516年、 ハプスブルク家 出身の カルロス1世 がスペイン国王に即位しました。スペインにとって幸運だったことの一つが、彼の 家柄 でした。こちらを見てください。
図はハプスブルク家の家系図です。これを見ると、カルロス1世の家柄のすごさが分かります。
彼の母フアナは スペイン王家の娘 、彼の父フィリップは ハプスブルク家 の人間です。ハプスブルク家といえば 神聖ローマ皇帝を務める家柄です。
つまり、カルロス1世は スペイン王家の血筋であり、神聖ローマ皇帝の血も引いているのです。 そのため彼は、1516年にスペイン王カルロス1世として即位した後、1519年には 神聖ローマ皇帝 も兼任し、 カール5世 として即位したのです。
このように家柄に恵まれたことが、カルロス1世の権力を高める要因となりました。
そんなカルロス1世の時代、スペインは広大な領土を支配していました。その中でもスペインの財源になっていたのが アメリカ大陸 です。アメリカ大陸で採れる大量の 銀 により、スペインは巨額の資金を得ていました。財源を確保できていたことも、スペインにとってはラッキーだったのです。
フェリペ2世、絶対王政を完成させる!
カルロス1世の次にスペイン国王になったのが フェリペ2世 です。彼はアメリカ大陸から得た銀によって財政を潤し 絶対王政を完成させました。
フェリペ2世の事績として有名なのが カトリック政策 です。彼は英王 メアリ1世 と結婚し、イギリスにカトリックを強制しました。さらに ネーデルラント植民地 へもカトリックを強制したのです。
これらの内容は、第19章の 宗教改革 ・ 宗教戦争 についての授業でも説明しました。ネーデルラント植民地にカトリックを強制したことで、1568年に オランダ独立戦争 が起こったのでしたね。
スペインは軍事政策においても絶好調でした。1571年の レパントの海戦 で、ローマ教皇やヴェネツィアと手を組んで オスマン帝国 を破ったのです。
さらにフェリペ2世は 海外に植民地を建設しました。 1571年には、東南アジアの フィリピン において、現在の首都である マニラ を建設しました。実はこの「フィリピン」というのは「フェリペ」という名前に由来しています。
1580年からは ポルトガル併合 も行いました。フェリペ2世の母は ポルトガル王家出身 だったので、ポルトガル王家断絶を機に併合を行いました。
広大な領土を有したスペインは「 太陽の沈まぬ国 」と呼ばれました。ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカ大陸。世界各地に領土を持つため、スペイン領からは一日中太陽を見ることができたといわれています。
スペイン絶対王政の終焉/勢いは長くは続かず…
ここまでスペイン絶対王政の様子を紹介してきました。しかし冒頭でもお伝えしたように、スペインが絶対王政を完成させたのは「たまたま」でした。 アメリカ大陸からの銀 や 王家の血筋 など、偶然の要素がたまたまスペインを助けてくれただけなのです。
1588年、「 無敵艦隊 」( アルマダ )と呼ばれたスペイン艦隊がイギリスに敗北しました。さらに、財源であったアメリカ大陸の銀の埋蔵量が底をつき、財政も悪化し始めました。こうしてスペイン絶対王政は終わりを迎えることとなったのです。
このように、スペイン絶対王政は偶然の要素が重なって成立していました。その幸運に頼るあまり、国内の産業や経済をきちんと育てなかったことが、スペインの失敗と言えるかもしれません。スペイン絶対王政が完成し、終わりを迎えるまでの流れ、しっかり覚えておきましょう。
主権国家体制と西欧絶対王政、第2回。
今回は「スペイン・オランダの絶対王政」について学習します。