5分でわかる!イギリス本国が13植民地におこなった理不尽
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この動画の要点まとめ
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フレンチ=インディアン戦争の結果、イギリス本国は財政難に陥った!
当時、イギリス本国は 重商主義政策 を採っていました。簡単に言うと、輸出を増やし輸入を減らすことで、国の経済を潤そうとしていたのです。輸出を増やすためには、輸出先の確保が必要です。そこでイギリスは植民地に目をつけたのですが、同じことを考えていたのがライバル国 フランス でした。1755年、両国は北アメリカを舞台についに激突します。 フレンチ=インディアン戦争 の始まりです。
フレンチ=インディアン戦争は、イギリスと13植民地の連合軍vsフランスと先住民の連合軍の戦いでした。勝利したのは イギリス です。敗れたフランス植民地は力を失い、13植民地の人びとはフランスとの衝突におびえる必要がなくなりました。
しかし、ここで一つ問題がありました。戦争に多額のお金をつぎこんだイギリス本国は 財政難に陥ってしまったのです。 本国は13植民地に対して 税金を増やし、財政を再建しようと考えました。
本国による課税と植民地側の反抗
1765年、本国は 印紙法 を制定しました。これはあらゆる印刷物に課税することを定めた法律で、新聞や教科書、婚姻届にまで適用されました。
印紙法の制定に対し、植民地側は「 代表なくして課税なし 」というスローガンを掲げて反対運動を行いました。当時、イギリス本国の議会には 植民地側の代表者がいなかった ことを批判し、そんな議会で決めた課税は13植民地には適用されない、と主張したのです。
13植民地の激しい反発を受け、イギリス本国は印紙法を廃止しました。しかし、今度は1773年に 茶法 という法律を制定したのです。これは、イギリス東インド会社に対し 13植民地で販売する茶への免税権を付与する法律 でした。税金がかからない分、東インド会社は植民地で茶を安く売ることができます。つまり、免税によって安価な茶を販売することで、東インド会社に市場を独占させようとしたのです。
13植民地の人びと、特に本国による市場の独占を恐れた商人たちは、茶法に強く反発します。その結果、茶法の制定と同じ1773年に ボストン茶会事件 がおこりました。茶法に反対する急進派がアメリカ先住民に扮装して、ボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃。なんと 船に積んであったお茶をすべて海に投げ捨てたのです。
余談ですが、「ボストン茶会事件」という日本語は 間違った和訳 になっています。この事件、英語では Boston Tea Party と呼ぶのですが、最後のPartyを日本語でいうところの「パーティー」の意味にとってしまったため、「茶会」という訳語になってしまったのです。ここでいうPartyは、本当は「仲間・集団」という意味で、Tea Partyとは「茶法に反対した人びとが起こした事件」なのです。決して、ボストン港でお茶会が開かれていたわけではありません(笑)。
さて、この「ボストン茶会事件」ですが、いくら先住民に変装したとはいっても、当然イギリス本国には 犯人が13植民地の人間である ことは分かります。そこで本国は ボストン港の閉鎖 や、ボストン港の位置する マサチューセッツ植民地の自治権剥奪 といった厳しい報復措置を取りました。
イギリス本国の報復措置に対し、13植民地の不満はついに頂点に達します。次の授業では、ついに13植民地が独立を求めておこした アメリカ独立戦争 について学習します。
ポイントの2つ目は、「イギリス本国と13植民地の対立」です。
ポイント1では、イギリスがアメリカに建設した 13植民地 について勉強しました。13植民地は、当初 イギリス本国と良好な関係を築いていた のです。しかし、ある 戦争 をきっかけとして、両者は次第に対立を深めていくことになります。