5分でわかる!革命の急進化!国王への信頼は下がり続ける
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この動画の要点まとめ
ポイント
ヴェルサイユ行進
フランス革命が始まるきっかけとなった バスティーユ牢獄襲撃事件 から3ヵ月後、今度は ヴェルサイユ行進 という事件が起きます。パリで穀物の値段が上がり、パンの値段が上昇したことに激怒した 約7千人の女性たち が、パリから国王が暮らすヴェルサイユ宮殿に向かって、降りしきる雨の中 約20キロ の道のりを行進したのです。この事件の結果、 国王ルイ16世一家は革命の中心地パリに連行されました。
ヴェルサイユから、フランス革命の中心地パリに連行された国王一家は、いつ暴動が起きるかと不安に思っていました。さらに、国王と国民議会の交渉人であった ミラボー という人物が死去してしまったため、国王はパリにとどまることに不安を強めました。
ヴァレンヌ逃亡事件
1791年6月、国王一家はついに オーストリア への逃亡を試みました。オーストリアは、国王ルイ16世の妃 マリー=アントワネット の生まれ故郷です。しかし逃亡計画は失敗し、国王一家はパリへ連れ戻されてしまいました。この事件を ヴァレンヌ逃亡事件 と呼びます。
「国王がオーストリアへ逃亡しようとした」というニュースは、瞬く間に全国に広がります。ヴァレンヌ逃亡事件の結果、国民の国王に対する不信感が強まったのです。
オーストリアがピルニッツ宣言を発表
ヴァレンヌ逃亡事件の後、オーストリア皇帝はプロイセン国王と共に ピルニッツ宣言 を発表しました。オーストリア皇帝は、ヨーロッパの全ての君主に対し、フランス革命への干渉を呼びかけたのです。つまり、これはオーストリアからの 警告 です。国民議会がフランス国王をないがしろにするなら、武力干渉も辞さないということをフランスに突きつけたわけです。
1791年憲法の制定
ピルニッツ宣言にあわてた国民議会は、同年に 1791年憲法 を制定しました。この憲法では 立憲君主政 や 財産資格選挙 などが定められました。この憲法を制定したあとで、国民議会は解散することになりました。
以上、フランス革命の進展について学習しました。
ヴェルサイユ行進やヴァレンヌ逃亡事件を経て、国王に対する国民の不信感が強まったこと、そして1791年憲法を制定した国民議会は解散したことをおさえておきましょう。
ポイントの2つ目は、「フランス革命の急進化」です。
ポイント1に引き続き、フランス革命の経過を学習します。