5分でわかる!ナポレオンの没落までの道…
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この動画の要点まとめ
ポイント
ロシア遠征を行うも大失敗!
1812年、ナポレオンは ロシア遠征 (モスクワ遠征)を行いました。ナポレオンは1806年に 大陸封鎖令 を出し、 ヨーロッパ諸国とイギリスとの貿易を禁止 したのですが、ロシアはこれに違反し、勝手にイギリスとの貿易を再開したのです。そこで、怒ったナポレオンはロシア遠征を行いました。
いざ戦いが始まると、ナポレオン軍は連戦連勝でした。ロシア軍は退却を続けるばかりで、ナポレオン軍はどんどんロシアに攻め入ったのです。しかし、実はこの戦況は ロシア軍の作戦どおりでした。 ロシア軍を追いかけるナポレオン軍が モスクワ を占領すると、ロシア軍はなんと モスクワの町に火をつけて、丸ごと焼き払ってしまったのです。 これを 焦土戦術 (しょうどせんじゅつ)といいます。
焦土戦術によって、モスクワにあった建物や施設、食糧などがすべて焼き払われてしまいました。つまりナポレオン軍は 物資の補給や休憩場所の確保ができなくなってしまったのです。 ナポレオン軍は撤退を決意しますが、当時の季節は 冬 でした。ロシアの厳しい寒さと食糧不足による飢えがナポレオン軍をおそい、 およそ60万人とも言われたナポレオン軍は壊滅状態に陥ってしまったのです。
こうして、ナポレオンのロシア遠征は大失敗に終わりました。この失敗を機にナポレオンの力は弱まり、各国がナポレオン打倒に動き出すことになるのです。
ライプツィヒの戦い
1813年、ナポレオンとヨーロッパ諸国との間で ライプツィヒの戦い がおこりました。別名 諸国民戦争 とも呼ばれます。この戦いで、ナポレオンは プロイセン・ロシア・オーストリアの連合軍に敗北します。 ナポレオンは 皇帝を退位し、エルバ島へ流刑されることになりました。
ナポレオン、再び皇帝に
皇帝ナポレオンがいなくなったフランスでは、なんと ブルボン朝 が復活し、 絶対王政の政治体制を復活させようとしました。 これに対し、フランス国民は当然反発します。この事態を知ったナポレオンは、流刑先のエルバ島を脱出。フランスに帰国して 再び皇帝に即位したのです。
ナポレオンの復位を知ったヨーロッパ諸国は、再びナポレオンと対峙します。1815年、 ワーテルローの戦い です。この戦いで、ナポレオン軍はイギリス・オランダ・プロイセンの連合軍に破れ、ナポレオンは再び退位することになりました。
皇帝を退位したナポレオンは セントヘレナ島 へと流刑されます。セントヘレナ島は 南大西洋上に浮かぶ孤島 です。先ほどのエルバ島とは違い、簡単にはヨーロッパに帰ってこられない場所に位置していました。ナポレオンは結局、この島で生涯を終えることになります。
ナポレオンは対外遠征を繰り返し、各地を支配しました。そして支配を受けた人たちはフランスへの反発を強め、反対に自分たちの 民族性 を強く意識するようになりました。「私は〇〇人だ、フランス人の支配を受けるのはおかしい」と思ったわけですね。つまり、ナポレオンの対外遠征は 各国の国民意識を刺激することにつながったのです。
ナポレオンへの反対運動が強まり、ついに彼の時代は終わりを迎えました。この流れをしっかり復習しておきましょう。
ポイントの2つ目は、「ナポレオンの失脚」です。
ポイント1で学んだ、各地で発生した 反ナポレオン運動 は次第に加速し、ついにナポレオンは没落していくことになります。そのきっかけとなったのは、ナポレオン軍による ロシア遠征 でした。