5分でわかる!二月革命の各地への影響
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この動画の要点まとめ
ポイント
「諸国民の春」
1848年にフランスで発生した 二月革命 は、ヨーロッパ各地に大きな影響を与えました。各地で国民意識や民族意識が高まり、革命や民族運動が発生したのです。この状況を「 諸国民の春 」、もしくは革命が起こった年になぞらえて 1848年革命 といいます。
革命が起こった国は、1つや2つではありませんでした。どの国でどのような動きがあったのか、順番に確認していきましょう。
ウィーンとベルリンの三月革命/ハンガリーとベーメンの民族運動
二月革命から1ヵ月後には、オーストリアで ウィーン三月革命 が発生しました。オーストリアの首都ウィーンで市民や労働者がクーデタを起こし、 メッテルニヒ を追放して ウィーン体制を崩壊させました。
ドイツ(プロイセン)では ベルリン三月革命 が勃発し、国民は国王に憲法制定を約束させました。
1848年の3月には、オーストリアに支配されていた ハンガリー と ベーメン で民族運動が起こりました。ハンガリーの多数を占める マジャール人 たちは、 コシュート という人物を中心に独立を宣言したものの、オーストリアを支援したロシア軍によって鎮圧されてしまいました。ベーメンでは チェック人 たちがプラハを中心に蜂起しましたが、こちらはオーストリア帝国軍によって鎮圧されてしまいました。
フランクフルト国民議会の開催
1848年の5月から、フランクフルトという都市で フランクフルト国民議会 が開催されました。この会議では ドイツの統一 と 憲法制定 についての話し合いが行われました。
この会議では、ドイツ統一の方式をめぐって 大ドイツ主義 と 小ドイツ主義 が対立しました。前者は オーストリアを中心にドイツを統一すべきだ という考え方で、後者は プロイセンを中心にドイツを統一し、オーストリアは統一の対象から除外すべきだ という考え方でした。オーストリアにはドイツ人以外の民族も多く住んでいるため、民族意識の強い人たちからは反発を受けていたのです。ちなみに、オーストリアを含めば領土が大きくなるので「大」ドイツ主義、それに対して「小」ドイツ主義、と名前がついています。
論争の結果 小ドイツ主義 が優勢となりましたが、オーストリアとの関係悪化を恐れたプロイセン王が抵抗したため、結局ドイツ統一は達成されませんでした。
イタリア民族運動とチャーティスト運動
1848年3月から、イタリア諸国で イタリア民族運動 が発生しました。当時のイタリアには複数の国が存在していて、各国で民族運動が発生したのです。例えば サルデーニャ王国 の統一運動や、青年イタリアの指導者 マッツィーニ による ローマ共和国建国 などの動きがありました。しかし、これらはいずれも失敗に終わってしまいました。
イギリスでは、二月革命が発生する前から チャーティスト運動 が行われていました。これは、労働者たちが参政権の獲得を求め、デモ行進やストライキなどの手段に訴えた運動です。チャーティスト運動は、二月革命の影響を受けて大いに盛り上がりを見せました。
以上のように、二月革命はヨーロッパ各地に大きな影響を与えました。各地でどんな動きがあったのか、しっかり復習しておいてください。また、これらの革命や民族運動は ウィーン体制の崩壊につながった こともおさえておきましょう。
ポイントの2つ目は、「諸国民の春」です。
フランスの 二月革命 に影響を受け、各地で起こった革命や民族運動について勉強します。