5分でわかる!統一運動の開始!
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この動画の要点まとめ
ポイント
首相カヴールの巧みな外交戦略!
サルデーニャ王国が進めたイタリア統一運動には、2人の中心人物がいました。国王 ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世 と首相 カヴール です。
首相のカヴールは非常に現実的で、冷静沈着な人物でした。彼は 巧みな外交戦略 を展開して国王を補佐しつつ、イタリア統一を進めていきました。
カヴールはまず、イタリア統一に乗り出す前に、英仏の要請を受けて クリミア戦争 に参加しました。この戦争は、クリミア半島を主戦場に オスマン帝国とロシアが激突した戦いです。 ちなみに英仏は、ロシアを警戒してオスマン帝国を支援していました。
サルデーニャ王国としては、クリミア戦争に参加したところでイタリアの領土を手に入れられるわけではありません。それでもカヴールは英仏の要請を受け入れました。実は、その目的は 英仏に接近することにあったのです。 実際カヴールはフランスに接近し、時の皇帝 ナポレオン3世 に イタリア統一への支援をお願いした ことで知られます。
一見イタリア統一に無関係なクリミア戦争に参加することで、サルデーニャの国際的地位を向上させ、イタリア統一への支援を取り付けたわけです。 まさにカヴールの巧みな外交戦略といえます。
イタリア統一の動き
1859年、いよいよ イタリア統一戦争 が始まりました。この戦争で、サルデーニャは オーストリア から ロンバルディア の獲得に成功しました。
その後、 中部イタリア 諸国がサルデーニャへの合併を望んでいることを知ったカブールは 中部イタリア併合 に乗り出しました。しかし、ポイント1で紹介したように、中部イタリアには フランス軍が駐屯していました。
そこでカヴールは、フランスのナポレオン3世に、自国領のうちフランス人が多く暮らす サヴォイア と ニース を割譲しました。その見返りとして、中部イタリア併合について ナポレオン3世から合意を得たのです。
中部イタリア併合のあと、サルデーニャ王国にとって幸運なことが起こりました。 ガリバルディ という人物が 千人隊(赤シャツ隊) を率いて 両シチリア王国 を征服し、その後サルデーニャ王国に領土を譲ったのです。サルデーニャ王国は、直接戦うことなく両シチリア王国を併合できました。
イタリア統一戦争で ロンバルディア を獲得。サヴォイア・ニースを割譲する見返りに 中部イタリア を併合。その後ガリバルディから 両シチリア王国 を献上される。こうして、サルデーニャ王国はイタリアを統一することになりました。
ついにイタリア統一達成!
1861年、ついに イタリア王国 が成立しました。イタリアが1つの国になったのです。ただ、同年に カヴールは病死してしまいました。 巧みな外交を駆使する彼の死後、イタリア王国は 戦争に便乗することで領土を拡大 していくことになります。
例えば、プロイセン=オーストリア戦争に便乗して ヴェネツィア を併合し、その後プロイセン=フランス戦争に便乗して 教皇領 を併合したのです。こうしてイタリア王国はイタリア人の居住地域を拡大していきました。
サルデーニャ王国のカヴールの活躍もあり、こうしてイタリアは統一されることになりました。ただ、統一後のイタリアでは 新たな問題 が起きることになりました。次のポイントでは、イタリア統一後の課題について説明します。
ポイントの2つ目は、「イタリア統一」です。
サルデーニャ王国 が中心となって、イタリア統一を進める様子を見ていきましょう。