5分でわかる!南下政策の本格化!
- ポイント
- ポイント
- 練習
この動画の要点まとめ
ポイント
ギリシア独立戦争
1つ目の戦争が ギリシア独立戦争 です。 オスマン帝国 からの独立を求める ギリシア が起こした戦争です。ロシアはギリシアの独立を支援して、この戦争に参加しました。
ロシアのほかにもイギリス・フランスがギリシアの味方につき、またロマン派文化人の バイロン (英)、 ドラクロワ (仏)もギリシア独立を支援したことで知られます。反対に、オスマン帝国側には エジプト が味方につきました。
ギリシア独立戦争の最中に、英・仏・露の連合艦隊がオスマン帝国の艦隊と激突する事件がありました。結果は連合艦隊側の勝利で、オスマン帝国の艦隊は全滅してしまいました。この敗戦を機に、オスマン帝国は ギリシアの独立を認めることになりました。
この後、ロシアはオスマン帝国から ダーダネルス・ボスフォラス両海峡 を自由に通航する権利を獲得しました。両海峡は、黒海から地中海方面に進出するために通る重要なルートです。
第1次エジプト=トルコ戦争
両海峡の自由通行権を得たロシアが次に考えたのは、その権利を独占することでした。そこでロシアは 第1次エジプト=トルコ戦争 にも参加しました。
この戦争は、オスマン帝国の エジプト総督 であった ムハンマド・アリー という人物が、オスマン帝国に対し シリアの領有を要求 したことから始まりました。オスマン帝国はこれを拒否し、エジプトとオスマン帝国との間で戦争が始まったのです。
この戦争でロシアは オスマン帝国 を支援しました。ただ、勝利したのはエジプトです。エジプトは、ムハンマド=アリーの要求どおりシリアの領有権を獲得することになりました。
敗れたオスマン帝国は、ムハンマド=アリーをおさえつけるためにはロシアの協力が必要だと考え、見返りとして ロシアの両海峡通行権を認め、同時にロシア以外の船の通行を禁止したのです。
第2次エジプト=トルコ戦争
こうしてロシアの南下政策は順調に進行していきました。しかし、両海峡の自由通行権を独占したロシアに対し、ヨーロッパ諸国は警戒心を強めていきました。
1839年、エジプト総督ムハンマド=アリーは、オスマン帝国に対しエジプトとシリアの世襲権を要求しました。オスマン帝国はこれを拒否し、再び両国の間で戦争が起こりました。 第2次エジプト=トルコ戦争 です。この戦争に、ロシアはオスマン帝国側について参戦しました。
ただし、ロシアを警戒するヨーロッパ諸国の思惑もあって、この戦争の結果はロシアにとって思わしくありませんでした。
1840年、第2次エジプト=トルコ戦争の講和会議である ロンドン会議 が開催されました。エジプト総督ムハンマド=アリーは エジプト・スーダンの世襲権を承認 されましたが、代わりにシリアを返還することになりました。
さらにロンドン会議の結果、イギリスやフランスなどのヨーロッパ列強は、ロシアを含む 全ての外国軍艦が両海峡を通航することを禁止 する協定を結びました。イギリスやフランスは、ロシアの動きを警戒して南下政策をけん制したわけです。
以上、3つの戦争を通してロシアの南下政策を見てきました。3つの戦争の名前と、それぞれの結果をおさえておきましょう。
ポイントの2つ目は、「南下政策の本格化」です。
これからみなさんに 3つの戦争 を紹介します。これら3つの戦争に注目しながら、 ロシアの南下政策が本格化する様子 を勉強していきましょう。