5分でわかる!クリミア戦争がその後のロシアを変えた!?
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は、「クリミア戦争とロシアの近代化改革」です。
前回の授業では ロシアの南下政策 が失敗に終わった話をしました。1840年に開かれたロンドン会議の結果、ロシアは 両海峡の自由通行権を失ってしまったのです。 しかし、ロシアは南下政策をあきらめませんでした。
今回は、そんなロシアが起こした クリミア戦争 と呼ばれる戦争と、その結果ロシアで起こったある「変化」に注目します。
クリミア戦争でオスマン帝国に大敗!
南下政策を進めたいロシアは、1853年に オスマン帝国 との戦争を開始しました。これを クリミア戦争 といいます。
戦争のきっかけとなったのは 聖地管理権の譲渡 です。オスマン帝国は、フランスのナポレオン3世の要求に応じて 聖地イェルサレムの管理権をフランスに譲渡しました。 ロシアはこれに反発し、オスマン帝国領内の ギリシア正教徒の保護 を口実に戦争を仕掛けたのです。
結果はロシアの惨敗でした。オスマン帝国側に 英・仏・サルデーニャ がついたこともあり、ロシアはオスマン帝国に敗北したのです。
1856年、講和条約として パリ条約 が締結されると、 黒海の中立化 が規定されました。つまり黒海はどこの国の領土にも属さず、ロシアが支配することももちろんできなくなってしまったのです。
こうして、ロシアの南下政策はまたもや失敗に終わってしまいました。
アレクサンドル2世、ロシアの近代化改革を進める
クリミア戦争の大敗を受けて、ロシア皇帝 アレクサンドル2世 は思いました。 ロシアは遅れている、もっと国を強くする必要がある 、と。そこで彼は ロシアの近代化改革 に着手しました。
1861年には 農奴解放令 を発布し、農奴に人格的自由を与えました。農奴とは、領主の土地を耕作して年貢などを納めていた人たちのことです。ただ、農奴たちに無償で土地が与えられたわけではありませんでした。土地の分与は 有償 だったのです。
身分的には解放されたものの、農民の多くは土地を買うお金がありませんでした。そこで彼らは ミール と呼ばれる 農村共同体 をつくりました。地主からまとめて土地を買い、その代金を分担して支払ったのです。「みんなでお金を出し合う」という点では、現代でいうとシェアハウスのようなイメージです。
ロシアからの独立を求め、ポーランドの反乱が発生
アレクサンドル2世の近代化政策に刺激を受け、ロシアに支配されていた ポーランド では、1863年に独立を求める反乱が起きました。アレクサンドル2世はこれを鎮圧し、次第に 専制政治を強めていくことになりました。
ナロードニキ(人民主義者)の登場
皇帝が専制政治を強めていく中、新たな革命の担い手として ナロードニキ(人民主義者) が登場しました。ナロードニキは 独自の平等社会の実現を目指して活動を行いました。 その中心となったのは、都市の知識人階級( インテリゲンツィア )でした。
改革を実現するために、彼らはロシア人口の多数を占める 農民 を巻き込もうと考え、「 ヴ=ナロード(人民の中へ) 」というスローガンを掲げて農村部に進出しました。
しかし、知識人たちが考えた「独自の平等社会」の思想に、農民たちはあまり同調しませんでした。加えて政府からの弾圧もあり、彼らの活動は失敗に終わってしまいます。
失望したナロードニキの一部は、次第に過激な行動をとるようになりました。なんと アレクサンドル2世を暗殺してしまったのです。 このように、ロシアでは暴力によって主張を通そうとする テロリズム(暴力主義) が横行するようになってしまいました。
以上、クリミア戦争とその後のロシアの変化についてのお話でした。クリミア戦争に敗北したロシアは近代化改革を行いましたが、テロリズムが横行するなど、国内が不安定な状態になってしまったのです。
19世紀の欧米諸国(2)、第2回。
今回は、「ロシアの近代化とバルカン進出」について学習します。