5分でわかる!また戦争!?イギリスの不正義な戦争
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は、「アロー戦争と北京条約」です。
前回の授業では アヘン戦争 について勉強しました。アヘン戦争が終結した後、中国は再びイギリスと アロー戦争 を戦うことになりました。今回はアロー戦争について学習します。
アロー戦争の勃発
1840年~1842年にかけて アヘン戦争 が勃発しました。イギリスが武力を用いて中国にせまり、港を開かせて自由貿易に組み込んだ戦争でした。
イギリスはこの戦争に圧勝し、清に不平等条約を結ばせましたが、思いのほか貿易で利益を得ることはできませんでした。中国の港を開かせ貿易を行っているのに、思うように儲けることができなかったのです。そこでイギリスは もう1度中国に戦争を仕掛けようと企みました。
そんな中、1856年に アロー号事件 が起こりました。広州湾に停泊中のアロー号に清朝の警察が立ち入り検査を行い、アロー号の中国人船員を逮捕したという事件でした。
これに抗議したのがイギリスです。アロー号は イギリス国旗を掲げていた のですが、イギリスは「中国が国旗を引きずりおろしたのはイギリスに対する侮辱行為だ!」と主張し、これを口実に中国へ宣戦布告したのです。しかもイギリスはフランスの ナポレオン3世 に共同出兵をもちかけました。
こうして始まったのが アロー戦争 です。強大な2国を相手に中国はなすすべもなく、英・仏軍は中国をどんどん北上していきました。清は降伏を宣言し、 天津条約 の締結を両国へ呼びかけました。
そして英・仏の調印使節がやってきたとき、ある事件が起こりました。なんと 清の保守派らが英・仏の使節に発砲したのです。 これは中国政府にとって予想外の出来事でした。
英仏はこれに反発し、再び軍事行動を再開することになりました。
戦争を再開した英・仏軍は、ついに当時の清の都 北京 を占領しました。北京にあった 円明園 を破壊し、清の皇帝を逃亡に追いやったのです。円明園は、清の康熙帝の時代につくられた皇帝の離宮です。
最終的に、清はアロー戦争の講和条約として 北京条約 を締結することになりました。
北京条約
続いて北京条約の内容を確認します。大事な内容を 4つ 紹介しますね。
1つ目は 外国公使の北京駐在 です。清の都北京には、イギリスやフランスの外交使節が常に駐在している状態になった、ということです。清は外交を担当する役所として 総理各国事務衙門 (そうりかっこくじむがもん)を設置することになりました。
2つ目は キリスト教布教の自由 です。これを受けて多くの宣教師が中国へやって来ることになりました。
3つ目は 開港場の増加 です。 南京 を含む合計10港の開港が行われました。さらに追加で 天津 が開港させられたことで、合計11の港が開かれることになりました。
4つ目は 九竜半島南部割譲 です。清はイギリスに九竜半島(くーろんはんとう)の南部を割譲し、領土を削られることになってしまいました。
以上、北京条約の内容を紹介しましたが、これで全部ではありませんでした。例えば上記以外にも、中国は 賠償金の支払い を命じられたのです。
こうして中国は、アヘン戦争のみならずアロー戦争の賠償金をも抱えることになりました。これらの賠償金はやがて 税金として中国の農民たちの負担となりました。 ポイント2では、重税に苦しむ農民たちがとった行動に注目します。
中国と朝鮮の植民地化、第2回。
今回は、「アロー戦争と太平天国の乱」について学習します。