5分でわかる!このまま黙っているわけにはいかない!中国の改革運動
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この動画の要点まとめ
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19世紀半ばの アヘン戦争 と アロー戦争 に敗北し、中国はボロボロになりました。国内では「滅満興漢」を掲げる 太平天国の乱 が発生し、清朝を打倒しようという動きが見られました。さらに国外からは、ポイント1で学んだように ロシアが南下政策を進めてきました。
19世紀後半の中国では、このような危機的な状況を打開しようと 洋務運動 と呼ばれる改革運動が行われました。今回はこの洋務運動について説明していきます。
洋務運動の始まり
太平天国滅亡後、中国は一時的に安定の時期を迎えました。この期間を「 同治の中興 」と呼びます。「同治」は当時の皇帝 同治帝 のことで、「中興」には 安定 という意味があります。
洋務運動は、この「同治の中興」と呼ばれる時期あたりから始まりました。ちなみに同治帝の摂政は、彼の母親である 西太后 (せいたいこう)という人物が務めていました。
洋務運動の基本精神「中体西用」
洋務運動は「 中体西用 」と呼ばれる立場に基づいて行われました。この「中体西用」、意味を覚えるときは 漢字 に注目してください。「 中 国の 体 制維持に 西 洋技術を 用 いる」という意味なのです。
洋務運動は 西洋の軍事技術を導入して富国強兵をはかろうとする運動 でした。ただし、皇帝独裁政治や儒学を基盤とした学問といった政治体制はそのまま維持しようとしました。つまり 中国の体制を維持しつつ、西洋の技術だけを導入しようとした 改革だったのです。この姿勢を「中体西用」と表現します。
曾国藩と李鴻章が洋務運動の中心!しかし中国は…
洋務運動の中心となったのは 曾国藩 や 李鴻章 でした。彼らは 洋務派 と呼ばれる官僚で、太平天国の鎮圧にあたっては義勇軍である 郷勇 を率いて活躍しました。
曾国藩や李鴻章が中心となって洋務運動を進めた結果、中国の町並みはガラッと変わりました。西洋風の工場が建設されたり、鉄道建設や鉱山開発が進められたりしたのです。人びとは、これで中国も列強と肩を並べる強国になったと期待しました。
しかし、人びとの期待は外れてしまいました。1884年に始まった 清仏戦争 ではフランスに敗れ、1894年に始まった 日清戦争 では日本に敗れてしまったのです。
これらの敗北から 洋務運動の限界 が明らかになりました。西洋技術は導入したものの、中国の伝統的な体制にこだわる洋務運動は 根本的な富国強兵には結びつかなかった のです。こうして洋務運動は挫折に終わってしまいました。
ポイントの2つ目は、「洋務運動」です。