5分でわかる!朝鮮の開国と閔氏の心変わり
- ポイント
- ポイント
- 練習
この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は、「朝鮮の開国」です。
前回までの授業では イギリスやフランス、ロシアが中国に進出する様子 を学習しました。今回は 日本が朝鮮に進出する様子 を学習します。
朝鮮国内では高宗の摂政「大院君」が有力だった
日本の朝鮮進出について説明する前に、まずは当時の朝鮮の様子を確認したいと思います。
19世紀後半、朝鮮王朝の国王は、第26代 高宗 でした。その奥さん、后(きさき)にあたるのが 閔妃 (びんひ)という人物で、彼女の一族のことを 閔氏 (びんし)といいます。
一族の娘(閔妃)が王の后になったことで、閔氏の期待は高まっていました。「これで我々も甘い汁が吸えるぞ!政治的な権力を持つことができるぞ!」と思ったわけです。
ところが閔氏の思惑通りにはなりませんでした。なぜなら当時の高宗には政治的な権力があまりなかったからです。政治の実権を握っていたのは、高宗の父親で彼の 摂政 でもある 大院君 (たいいんくん)という人物でした。
閔氏にとって大院君は目障りな存在でした。そこで閔氏は 朝鮮進出をもくろんでいた日本と手を組んだのです。
日本の軍事力を背景に、閔氏は大院君を失脚させることに成功しました。こうして閔氏は朝鮮の政治権力を握り 独裁政治を展開することになりました。
ただし、ひとつ気をつけたいことがあります。閔氏が手を組んだ 日本 です。日本は決してボランティアで力を貸したわけではありません。当然日本にも 狙い がありました。
そう、その狙いとは 朝鮮進出 です。大院君の失脚後、閔氏を利用した日本の朝鮮進出が始まりました。
日本の朝鮮進出
閔氏による独裁政治が始まってしばらく経った1875年、日本は 江華島事件 を起こしました。日本の軍艦が朝鮮の 江華島 付近で朝鮮を挑発し、挑発に乗った朝鮮が砲撃を仕掛けてきたことで、両軍の間で戦闘になったという事件でした。
日本は朝鮮が行った砲撃の責任を追及し、交渉を行うために開国を迫りました。これを受けて、翌1876年に 日朝修好条規 が締結されたのです。この条約には朝鮮の 自主独立宣言 が含まれていました。
日朝修好条規はまさに 不平等条約 といえる内容でした。朝鮮は 釜山 (ぷさん)・ 元山 (げんさん)・ 仁川 (じんせん)の3港を開港し、さらに日本の 領事裁判権 を承認させられたのです。
朝鮮の反発
「閔氏政権に代わってから日本が進出してきたぞ?」「大院君の時代の方が良かったよ、平和だったし…。」日本の進出を受けて、朝鮮国内では次第に 閔氏政権を批判する声が高まるようになりました。
1882年、大院君を支持する軍隊がついに反乱を起こしました。これを 壬午軍乱 (じんごぐんらん)といいます。反乱軍は閔氏政権を倒し、大院君政権を復活させることに成功しました。
ただしこの後、反乱鎮圧のために2つの国が干渉してきました。朝鮮進出をねらう 日本 と、古くから朝鮮の「兄貴分」のような存在だった 中国(清) です。日本と清の干渉によって、再び閔氏政権が復活することになりました。
ここでみなさんに注目してほしいのは 日本と清の対応の違い です。反乱鎮圧にあたり、清は 大院君を捕縛して閔氏を支援しました。 一方の日本は、壬午軍乱の後に閔氏政権と交渉し、反乱の中で日本の公使が殺害されたことや大使館が焼かれたことに抗議し、賠償金支払いなど数多くの要求を行ったのです。
みなさんが閔氏だったらどっちの対応が良いですか?もちろん 清 ですよね。かつては大院君を排除するために日本と手を結んだ閔氏でしたが、壬午軍乱での対応を受け、日本と手を切って 清と手を結ぶことにしました。
事大党vs開化派/甲申政変の発生
閔氏政権が清と手を結んだことに対して、朝鮮国内では意見が真っ二つに分かれ、 事大党 と 開化派 という勢力が登場しました。
事大党は 閔氏 らを中心とする保守派勢力で 古くからの友好関係にある清と手を結ぶべきだ と主張しました。一方の開化派は 金玉均 (きんぎょくきん)らを中心とする勢力で、日本と手を結び、朝鮮の独立と近代化を進めるべきだと主張しました。
開化派は1884年、閔氏ら保守派を打倒すべくクーデタを起こしました。これを 甲申政変 といいます。開化派は日本の支援を受けて武装蜂起したのですが、結局は 清の介入によって鎮圧されてしまいました。
甲申政変を経て、朝鮮をめぐる日本と清の関係はさらに悪化しました。次のポイントでは、いよいよ両国が 直接対決 します!
中国と朝鮮の植民地化、第4回。
今回は、「日本の朝鮮進出」について学習します。