5分でわかる!オランダのジャワ・スマトラの植民地化
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「オランダの東南アジア進出」です。
オランダは19世紀に東南アジア、特に現在の インドネシア にあたる地域に進出しました。詳しく見ていきましょう。
イギリス=オランダ協定で勢力圏を画定
1824年、オランダは イギリス=オランダ協定 を結びました。東南アジア進出にあたってイギリスと「打ち合わせ」を行い、どこを自国の領土にするかを交渉したわけです。
この協定によって マラッカ海峡 の東側をイギリス、西側をオランダの勢力圏とすることになりました。こちらを見てください。
オランダの勢力圏となったマラッカ海峡の西側には ジャワ島 や スマトラ島 が位置しています。だからこそオランダはこれらの地域に進出を行ったのです。
まずはジャワ島に進出/強制栽培制度の開始
オランダはまず ジャワ島 に進出しようと考え、軍隊を送り込んで支配を開始しました。すると1825年、ジャワ島の住民がオランダの支配に対して反乱を起こす事態になったのです。これを ジャワ戦争 といいます。
オランダは反乱鎮圧に成功しましたが、激しい抵抗にあって思いのほか苦戦してしまいました。その結果 オランダの財政は悪化してしまったのです。
そこでオランダは、財政再建のために 強制栽培制度 を導入するようになりました。ヨーロッパに輸出する 商品作物 として、コーヒーなどの指定作物を強制的に作らせることにしたのです。
東南アジアで作った商品作物をヨーロッパへ輸出することで、オランダは莫大な利益をあげました。ちなみにその利益は オランダ産業革命の資金源となりました。
アチェ戦争の勃発/オランダ領東インドの完成
オランダの支配は現地の人たちにとって苦痛でしかありませんでした。強制栽培制度にしても、自分たちが楽しめるわけではないコーヒーを、オランダがヨーロッパに輸出するためだけに作らないといけないわけです。
ジャワ島・スマトラ島の人びとの不満は日に日に高まり、1873年には アチェ戦争 が勃発することになりました。スマトラ島の北端に位置する アチェ王国 がオランダに抵抗した戦争です。アチェ王国の農民たちは ゲリラ部隊 を結成し、オランダ軍を苦しめました。
苦戦を強いられたオランダでしたが、1912年にアチェ王国の制圧に成功しました。アチェ戦争に勝利した後、オランダは現在のインドネシアにあたる地域に オランダ領東インド を完成させることになりました。
こうしてオランダは東南アジアにおける植民地を完成させました。次のポイントでは イギリス が東南アジアに植民地を建設する動きを学習します。
アジア諸地域の植民地化、第2回。
今回は「オランダ・イギリスの東南アジア進出」について学習します。