5分でわかる!急激な近代化で生まれた社会の歪み
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「ロシアの近代化と社会の歪み」です。
いよいよ 産業革命 を迎え、近代化を進めるロシアの様子に注目します。
フランス資本の導入/ロシア産業革命が本格化
ロシアでは1613年から ロマノフ朝 という王朝が存続し、皇帝による独裁政治が行われていました。ロマノフ朝は 南下政策 を推進して「凍らない港」を獲得し、穀物を輸出することで産業革命の資金源にしようと考えていました。
ただしロシアの南下政策は様々な国に警戒されて阻止され、なかなか産業革命を起こすことができていませんでした。そんな中、ある国がロシアに接近してきました。 フランス です。
19世紀末、ロシアとフランスの間で 露仏同盟 が締結されました。この同盟でロシアはフランスからお金を借り、産業革命を本格化させることに成功しました。
また、ロシアは1891年から シベリア鉄道 の建設を始めました。その目的は 東アジア(中国)方面へ進出するためです。 シベリア鉄道は1905年に完成し、全長はなんと9300kmにも及びました。
第1次ロシア革命の勃発/日露戦争の継続が困難になった
東アジア方面への進出を強めるロシアは、朝鮮や中国東北部への進出をねらっていた 日本 と衝突することになりました。1905年、 日露戦争 の始まりです。
当初はロシア有利かと思われていましたが、近代化を進める日本軍が連勝を重ね、ロシアを追い込んでいきました。
日露戦争の戦況が不利になると、ロシア国内では 血の日曜日事件 が発生しました。民主化と戦争中止を掲げる市民や労働者がデモを行ったところ、ロシアの軍隊が彼らに発砲したという事件です。
この事件で民衆の怒りは高まり、1905年に 第1次ロシア革命 が発生しました。各地で労働者を中心に暴動・ストライキが発生したのです。
また、労働者たちは ソヴィエト(評議会) を結成するようになりました。もともとは各地の工場労働者が集まる会議として発足したソヴィエトでしたが、第1次ロシア革命においては労働者や兵士の代表機関として機能したのです。
このような国内混乱が発生したロシアは、もはや日露戦争を継続することはできませんでした。日本側にも戦争継続が困難な事情があったため、両国はアメリカの仲介で和解することになり、講和条約である ポーツマス条約 を締結しました。
ウィッテの自由主義的改革
日露戦争が終わった後も第1次ロシア革命は継続していました。そこで当時のロシア皇帝は ウィッテ が起草した 十月宣言 を発表し、市民の不満をおさえこもうとしました。
十月宣言では、立法権を持つ 国会 である ドゥーマ の開設や、憲法の制定が約束されました。皇帝の独裁ではなく 憲法に基づく政治 を行うことを約束したのです。
そこで、憲法の内容を話し合うために 立憲民主党 と呼ばれる政党が成立しました。ロシアの中でも比較的裕福な層の意見を代表する政党でした。
ウィッテは1905年に首相となり、自由主義的改革を推進していきました。彼の尽力により第1次ロシア革命は収束へ向かっていくことになったのです。
ストルイピンの改革/再び皇帝独裁が強まった!
第1次ロシア革命が収束に向かうと、ロシア皇帝は再び専制政治を行う姿勢を強めるようになりました。
1906年にウィッテが首相を辞任すると、新たに ストルイピン という人物が首相に就任しました。彼は立法権を持つ国会である ドゥーマの解散 や、農村共同体である ミールの解体 といった政策を進めました。
ロシアの農民は共同体で土地を保有し、みんなで土地を耕していました。ストルイピンはミールを解体することで自作農を育成しようと考えたのです。
ただし彼の目論見どおりにはいかず改革は失敗、ロシア国内はさらに混乱することになりました。
日露戦争の最中、ロシア市民は民主化と戦争中止を求めて第1次ロシア革命を起こしました。彼らの要求はウィッテの自由主義的改革のもとで達成されたかに見えましたが、最終的には再び抑圧されてしまったのです。
以上の流れをしっかり覚えておきましょう。
帝国主義の時代、第4回。
今回は「ロシアの動向」について学習します。