5分でわかる!アフリカってどんなところ?
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「大西洋三角貿易とアフリカ探検」です。
17~18世紀頃を中心に、アフリカは 大西洋三角貿易 と呼ばれる貿易体制に組み込まれることになりました。これはいったいどんな貿易だったのでしょうか?
大西洋三角貿易/アフリカの黒人が「奴隷」として扱われた…
大西洋三角貿易の中で、ヨーロッパの国々はアフリカ大陸を 奴隷の供給地 と見なしていました。16世紀ごろから、ヨーロッパの商人はアフリカ西岸で得た黒人を、南北アメリカやカリブ地域などに奴隷として輸出する 黒人奴隷貿易 を行っていたのです。
西欧の国々は西アフリカに 日用品・雑貨・武器 を輸出しました。武器は現地で戦争の道具として使われました。戦争で負けた国の黒人たちは奴隷としてアメリカ大陸に送られ、 プランテーションの労働力 として使役されました。
そしてプランテーションで栽培された さとうきび・タバコ・綿花 などの商品作物は西欧に輸出されました。これが大西洋三角貿易の仕組みです。
一説では 二千万人 近い黒人がアフリカ西岸からアメリカへ輸出されたと言われています。働き盛りの若い黒人が奴隷として輸出されたことで、アフリカの荒廃は進んでいきました。
奴隷制度の廃止/探検家たちがアフリカを調査
そんなアフリカにも転機が訪れます。19世紀になるとイギリス・フランスなどで 奴隷制度が廃止されるようになったのです。 黒人への非人道的な扱いを非難する風潮が世界的に高まっていたことが背景にありました。
もはや「奴隷の供給地」ではなくなったアフリカに対しては、新たな魅力を探すべく、ヨーロッパから 探検家 が派遣されました。イギリスの宣教師であった リヴィングストン はナイル川の水源探査を行いましたが、途中で消息不明となりました。
その後イギリス出身のアメリカ人 スタンリー が探検にでかけ、リヴィングストンの救出に成功しました。ちなみに行方不明となったリヴィングストンは、黒人の質素な暮らしや敬虔な信仰心にほれこみ、現地の村で生活していたのです。
リヴィングストンの救出に成功したスタンリーはその後 コンゴ 地域を探検し、現地の情勢を明らかにしました。
ベルギー国王のコンゴ領有宣言/列強の反発
スタンリーのコンゴ探検を支援したのは ベルギー国王 でした。スタンリーの報告を受けたベルギー国王は、なんと コンゴ領有 を宣言しました。
この宣言に対しヨーロッパ列強は反発しました。ポイント2では、これらの問題を調停するために開かれた 国際会議 に注目します。
世界分割と列強の対立、第1回。
今回は「アフリカ分割の始まり」について学習します。