5分でわかる!アフリカ北部への進出!

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この動画の要点まとめ
ポイント

ポイントの1つ目は「アフリカ北部への進出」です。
イギリスがアフリカを侵略していく様子 を学習します。
アフリカ縦断政策(エジプト)

イギリスのアフリカ植民地化政策を アフリカ縦断政策 といいます。イギリスにとって重要なアフリカ北部と南部を植民地化し、その後南北を連結しようとする政策です。

アフリカ北部の中でも、イギリスはまず エジプト に注目しました。その理由はフランス人技師 レセップス が建設した スエズ運河 にありました。

スエズ運河を通れば、イギリスから地中海を通って最短ルートで インド へ到達できます。イギリスにとってインドは アジアにおける重要な植民地 だったのです。

1875年、イギリスのディズレーリ内閣は スエズ運河会社の株式を買収 し、スエズ運河の支配権を獲得することになりました。

地図にはスエズ運河と エジプト・スーダン の位置が示されています。イギリスはこれら2国を支配下においてスエズ運河の安全を確保しようと考えました。

イギリスの進出を受けたエジプトでは ウラービー運動 が起こりました。陸軍大臣 ウラービー が「エジプト人のためのエジプト」というスローガンを掲げてイギリスを排除しようとした運動です。

ウラービー運動はイギリスに鎮圧され、最終的にエジプトはイギリスの 保護国 となってしまいました。
アフリカ縦断政策(スーダン)

エジプトの南に位置する スーダン でも、イギリスの進出とそれに対する反発が見られ、1881~1898年には マフディーの乱 が発生することになりました。

ちなみに「マフディー」は人名ではなく、アラビア語で「救世主」を意味します。スーダンのムハンマド=アフマドという人物がマフディーを名乗り、反乱を指揮しました。

反乱鎮圧に乗り出したイギリスは、総督 ゴードン が戦死するなど苦戦を強いられました。ちなみにこのゴードンは、中国で発生した 太平天国の乱 を 常勝軍 の指揮官として鎮圧した人物です。

苦戦はしたものの、最終的にイギリスは反乱鎮圧に成功しました。こうしてイギリスはスーダン支配に成功したかと思われましたが、今度は ファショダ事件 と呼ばれる英仏の衝突事件が発生しました。

イギリスがアフリカ縦断政策を進めていたのと同時に、フランスは アフリカ横断政策 を推進していました。両者の政策はスーダンのファショダという場所でぶつかることになったのです。

あわや武力衝突かと思われましたが、ファショダ事件はフランスが譲歩することで解決しました。フランスはイギリスにファショダを譲ったのです。ちなみにこの事件は、帝国主義をとる国家同士の最初の衝突とされています。
3C政策

イギリスがアフリカの「縦断」を進めた理由。それは 3C政策 を推進するためでした。こちらを見てください。

イギリスは ケープタウン・カイロ・カルカッタ の3都市を結び付けようと考えていました。3つの都市の頭文字がいずれもCなので、これを3C政策といいます。イギリスはインドへ接続するルートを強固にしたかったのです。

以上、イギリスの アフリカ北部 への進出について学習しました。ポイント2では アフリカ南部 への進出に注目します。

世界分割と列強の対立、第2回。
今回は「イギリスのアフリカ進出」について学習します。