5分でわかる!アフリカ北部から東西へと拡大!
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「アフリカ横断政策」です。
前回学習したイギリスの アフリカ縦断政策 に対し、フランスのアフリカ進出政策を アフリカ横断政策 といいます。いったいどんな政策だったのか、一緒に確認していきましょう。
アフリカ横断政策の進展
19世紀前半、アフリカ分割が始まる以前に、フランスは シャルル10世 の アルジェリア 出兵によって同地を植民地化していました。
シャルル10世はブルボン復古王政の二代目の国王で、絶対王政を復活させ国民から反発を受けました。その反発を国外へそらすため、シャルル10世はアルジェリア出兵を行ったのです。
アフリカ進出にあたって、フランスはこのアルジェリアを起点に東西へ勢力を拡大していきました。1881年にはアルジェリアに隣接する チュニジア を保護国化しました。
チュニジア保護国化にあたり、フランスは同国への進出を狙っていた イタリア との対立を深めました。この対立に目をつけたドイツのビスマルクによって、1882年にドイツ・オーストリア・イタリアの 三国同盟 が結成されました。
フランスは横断政策のゴール地点として ジブチ に港を建設しました。さらに マダガスカル の領有やサハラ砂漠の領有など、順調に横断政策を推進していきました。
英仏の対立
フランスのアフリカ横断政策は、イギリスの縦断政策と衝突することになりました。1898年の ファショダ事件 です。スーダンのファショダという場所で両軍が対峙し、あわや武力衝突が発生するかと思われました。
この事件はフランスがイギリスに譲歩することで決着がつきました。当時フランスはドイツと対立していたため、新たな敵を作るのは避けたかったのです。
ファショダ事件では対立したイギリスとフランスでしたが、両者はこのあと接近することになりました。1904年には 英仏協商 が結ばれ、イギリスのエジプトにおける優越権と、フランスの モロッコ における優越権を相互に承認することになりました。
英仏協商でモロッコにおける優越権を認められたフランスは、この後もちろんモロッコの支配を強めることになりました。ポイント2では、フランスがモロッコの支配をめぐり ある国 と対立する様子を学習します。
世界分割と列強の対立、第3回。
今回は「フランスのアフリカ進出」について学習します。