5分でわかる!日本にならって近代化を!
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この動画の要点まとめ
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日清戦争の敗北は、中国にとって 衝撃的な出来事 でした。かつて唐の時代には日本から遣唐使が派遣され、中国の優れた文化を学んで日本に持ち帰っていましたよね。こうした歴史を積み重ねてきた中国にとって、日本はずっと「格下」の国だったのです。
日清戦争で中国は、ずっと格下だと思っていた相手に敗れてしまったわけです。人びとはショックを受けました。「我々は西欧どころか日本にすら勝てないのか…」と。そこで中国では、日清戦争の後に 変法運動 と呼ばれる 近代化を目指す改革 が始まったのです。
変法運動/日本の明治維新を模範とした
19世紀末期に清の皇帝となった 光緒帝 (こうしょてい)は、 康有為 (こうゆうい)や 梁啓超 (りょうけいちょう)らを官僚に登用し、日本の 明治維新 を模範とした改革運動を試みました。これを変法運動といいます。
変法運動の中で、特に日本のような 立憲君主制 の樹立を目指し、康有為や梁啓超らが進めた運動を 戊戌の変法 (ぼじゅつのへんぽう)といいます。
皇帝の独裁政治ではなく、日本のように憲法を制定して政治を行うことで、中国を強くしようと考えたのです。
戊戌の政変/西太后ら保守派が改革を弾圧!
ただし、康有為らの変法運動は 西太后 ら保守派によって弾圧されてしまいました。この出来事を 戊戌の政変 (ぼじゅつのせいへん)といいます。西太后は当時の宮廷で政治の実権を握っていた人物です。
西太后ら保守派が改革を弾圧したのは、皇帝の権力が制限されるのを嫌ったためとも、改革に伴う国内混乱に乗じて再びヨーロッパ諸国が干渉してくるのを警戒したためともいわれています。
西太后の本当の狙いについては諸説あるものの、戊戌の政変によって康有為らの近代化改革が弾圧され、挫折してしまったことは確かです。
以上、中国分割が進む中で行われた変法運動(戊戌の変法)と、それを弾圧した戊戌の政変を紹介しました。
この次の授業では、近代化改革が失敗した後の中国の様子を見ていきます。
ポイントの2つ目は「変法運動」です。
日清戦争後の中国で見られた 近代化を目指す改革 について学習します。