5分でわかる!イギリスなんて早く出ていけ!
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この動画の要点まとめ
ポイント
いったい何があったのでしょうか?
ベンガル分割令/イギリスの狙いは?
1905年、イギリスは ベンガル分割令 を発布しました。ベンガル地方はインドで最も肥沃な土地とも呼ばれ、ガンジス川の下流に位置しています。
イギリスはこのベンガル地方を、 イスラーム教徒 が多い東ベンガルと、 ヒンドゥー教徒 が多い西ベンガルとに分割しようとしたのです。
イギリスの狙いは 宗教対立を引き起こすこと にありました。
当時インドでは 反英運動 が徐々に高まりを見せていたため、警戒したイギリスはベンガル分割令を発布し、インド人の団結を妨害しようと考えたのです。
カルカッタ大会4綱領の採択
ベンガル分割令に反発したインド国民会議は カルカッタ大会 を開催しました。この大会では、国民会議の急進派であった ティラク という人物が中心となり カルカッタ大会4綱領 が採択されました。
4綱領の内容は 英貨排斥・スワデーシ・スワラージ・民族教育 です。英貨排斥は イギリス製品を買わないこと を意味します。
スワデーシは国産品を愛用すること、スワラージは自治・独立を獲得することを意味します。この2つは名前が似ているので注意してくださいね。
民族教育はその名の通り、インドの青少年に対し教育を施すことを意味します。イギリスの植民地教育を否定し、インドの民族的自覚を促す教育です。
全インド=ムスリム連盟の結成
イギリスはあわてました。ベンガル分割令を発布したところ、 インド国民会議が反英的な組織に変わってしまった からです。
そこでイギリスは、インドの イスラーム教徒の政治団体 である 全インド=ムスリム連盟 の結成を支援しました。
ポイント1でお伝えしましたが、インド国民会議は ヒンドゥー教徒 主体です。イスラーム教徒による全インド=ムスリム連盟は、ヒンドゥー教徒主体の国民会議と対立しました。
こうしてインドでは イスラーム教徒vsヒンドゥー教徒 の対立関係が明確になりました。実はこの対立は 第二次世界大戦後のインドにまで影響を及ぼす ことになります。
以上、インドにおける反英運動の高まりについて学習しました。しっかり覚えておきましょう。
ポイントの2つ目は「反英運動の高まり」です。
インド国民会議は当初 親英的で穏健な組織 でしたが、次第に 反英的 な組織となり、 民族運動 を展開していくことになりました。