5分でわかる!オスマン帝国では立憲運動が再発!?
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「オスマン帝国の立憲運動」です。
オスマン帝国では、19世紀後半に 皇帝が憲法を停止した ことがきっかけで、 憲法の復活を求める運動 が起こることになりました。詳しく見ていきましょう。
アブデュル=ハミト2世がミドハト憲法を停止
19世紀半ばに行われたクリミア戦争の後、オスマン帝国では 憲法制定を求める動き が高まりました。
1876年には、宰相 ミドハト=パシャ が起草した、アジア初の憲法として知られる ミドハト憲法 が発布されたのです。
しかしミドハト憲法は、皇帝 アブデュル=ハミト2世 によって、ロシア=トルコ戦争の勃発を口実に停止されてしまいました。
「青年トルコ人」の結成
オスマン帝国はロシア=トルコ戦争に敗れ、多くの領土を失うことになりました。そんなオスマン帝国では 皇帝の権力をおさえ、憲法を復活させようとする動き が見られるようになりました。
憲法復活を求める人びとは「 統一と進歩団 」という政治組織を結成しました。その後、「統一と進歩団」を中心に複数の組織が合流し「 青年トルコ人 」と呼ばれる勢力が誕生しました。
青年トルコ革命/ミドハト憲法の復活
1904~1905年の 日露戦争 では、アジアの小国日本が欧米列強の一角ロシアに見事勝利しました。これを受けてオスマン帝国では、日本のように憲法に基づく政治を行うべきだという声が強くなったのです。ちなみに当時の日本の憲法といえば 大日本帝国憲法 です。
こうして1908年に 青年トルコ革命 が起こりました。「青年トルコ人」が政府にせまって ミドハト憲法を復活 させ、アブデュル=ハミト2世を退位に追い込んだのです。
青年トルコ革命により、オスマン帝国ではミドハト憲法が復活しました。ただ、政権をにぎった青年トルコ人は 軍事独裁 を行うようになり、1914年に始まる 第一次世界大戦 に参戦することになります。
オスマン帝国における憲法復活の動き、しっかり覚えておきましょう。
帝国主義とアジアの民族運動、第3回。
今回は「西アジアの民族運動」について学習します。