5分でわかる!バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」!?
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この動画の要点まとめ
ポイント
当時のバルカン半島で、いったいどんな動きがあったのでしょうか?詳しく見ていきましょう。
パン=ゲルマン主義vsパン=スラヴ主義
まず、バルカン半島に対して ドイツ と ロシア が特に高い関心を持っていました。
当時のドイツは パン=ゲルマン主義 を掲げていました。これは すべてのドイツ人の結集 を訴える思想です。ドイツ・オーストリアはパン=ゲルマン主義を掲げてバルカン半島進出を狙いました。
これに対立したのが パン=スラヴ主義 です。これは スラブ民族の統一と連合 をめざす思想です。バルカン半島には スラヴ系民族 が多く暮らしており、中でも セルビア という国がパン=スラヴ主義の中心勢力でした。
ロシア もスラブ系民族の国なので、このパン=スラヴ主義を支援する形でバルカン半島へ進出してくることになりました。
セルビアの反オーストリア感情が高まる…
1908年、オスマン帝国(トルコ)で 青年トルコ革命 が発生しました。この革命でオスマン帝国は混乱状態に陥り、その隙にオスマン帝国に支配されていた ブルガリアが独立を宣言しました。
さらに、この混乱に乗じてオーストリアが ボスニア・ヘルツェゴヴィナ を無理やり併合しました。こちらを見てください。
オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に対し、最も強く反発したのが セルビア でした。地図を見て分かるように、オーストリア勢力がセルビアのすぐ近くにまで接近してきたわけです。
ちなみに、ボスニアには 多数のセルビア人が住んでいた ことも、セルビアの反オーストリア感情を高めました。
バルカン同盟の結成とバルカン戦争
1911~1912年、 イタリア=トルコ戦争 が起こりました。青年トルコ革命の混乱に乗じて、イタリアもオスマン帝国に宣戦布告したのです。
この戦争に勝利したイタリアは、オスマン帝国領であった北アフリカのトリポリ・キレナイカ地方(現在の リビア )を獲得しました。
オスマン帝国の混乱・衰退を見たセルビアは、ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアと結び、ロシアの支援を受けて バルカン同盟 を結成しました。
1912年、バルカン同盟はオスマン帝国の領土を奪おうと戦争を仕掛けました。これを 第1次バルカン戦争 といいます。結果はもちろんバルカン同盟の勝利でした。
バルカン同盟はオスマン帝国から領土を獲得しましたが、今度はその領土の分配をめぐり同盟内で 仲間割れ が起きました。こうして1913年に 第2次バルカン戦争 が発生したのです。
領土分配に不満だった ブルガリア は、セルビア・モンテネグロ・ギリシアと戦いました。セルビア側にオスマン帝国やルーマニアが味方したこともあり、ブルガリアは敗北しました。
2度のバルカン戦争で敗れたオスマン帝国とブルガリアは、セルビアや、セルビアの背後に控えるロシアに反発し、この後 ドイツ・オーストリアに接近しました。 この対立関係が 第一次世界大戦 にもつながっていくことになります。
ポイントの3つ目は「バルカン半島の危機」です。
20世紀初頭、 バルカン半島 は「 ヨーロッパの火薬庫 」と呼ばれるほど「危険」な状態でした。各地の民族運動や列強の利害対立が複雑に絡まり、一触即発の状態だったのです。