5分でわかる!ボリシェヴィキの独裁体制へ!
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この動画の要点まとめ
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ボリシェヴィキによる一党独裁が完成!
ボリシェヴィキの武装蜂起によってレーニンが政治権力を握った後、ロシアでは 憲法制定のための選挙 が開かれました。この選挙の結果、なんとレーニン率いるボリシェヴィキは 社会革命党に敗れてしまいました。
レーニンにとっては想定外の事態だったと思われますが、彼はこの結果をうまく利用しました。開票リストからボリシェヴィキへの支持が少ない地域をあぶり出し、弾圧や取締りに利用したのです。
レーニンは、革命政権を防衛するための治安組織として チェカ(非常委員会) を設置しました。ロシアの 秘密警察 のような役割を担った組織です。レーニンはチェカを利用し、反ボリシェヴィキ勢力が多い地域に目を光らせました。
1917年11月には、先ほど紹介した選挙に基づく 憲法制定会議 が開催されました。ただしこれは1週間も経たないうちに、レーニンによって 武力で解散させられてしまいました。
憲法制定会議が解散させられたことで、ロシアでは ボリシェヴィキによる一党独裁政権 が成立することになりました。
ボリシェヴィキ独裁体制のもとで改革が進展!
一党独裁体制のもと、レーニンは ブレスト=リトフスク条約 を締結しました。ロシア全権 トロツキー が交渉し、ドイツなど同盟国と 単独講和条約 を結んだのです。これでロシアは第一次世界大戦から離脱することになりました。
さらにレーニンは、トロツキーを指導者とする 赤軍(せきぐん) を設置しました。赤は 社会主義を表す色 です。赤軍は 社会主義政権を守る軍隊 として設立されました。
赤軍の設立後、レーニン率いるボリシェヴィキは ロシア共産党 と名前を変えました。政党名に「ロシア」という国名を入れることで、人びとの愛国心を高める狙いがあったと言われています。ちなみにボリシェヴィキは「多数派」という意味です。
さらにボリシェヴィキは、ヨーロッパから離れた モスクワ へ遷都しました。このように、一党独裁体制を確立したボリシェヴィキは次々に改革を進めていったのです。
ポイントの2つ目は「ボリシェヴィキの独裁」です。
ロシア十月革命を経て権力を握ったレーニンが、 ボリシェヴィキによる独裁体制を築いていく様子 を学習します。