5分でわかる!ムッソリーニの一党独裁体制の確立!
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戦後のイタリアは、フィウメの領有をめぐってヴェルサイユ体制に不満を持っていました。また、国内の労働者たちは社会党への不満を強めていました。
こうした流れの中、イタリアでは ムッソリーニ という人物が率いる ファシスト党 が勢力を拡大し、国民の支持を集めていきました。詳しく見ていきましょう。
富裕層からも貧困層からも支持を獲得
ムッソリーニ率いるファシスト党は、特に 資本家・地主などの富裕層 から強く支持されました。その理由は、ファシスト党が 反社会主義 を掲げていたからです。
社会主義革命が成功すれば、工場・機械・土地などが国有化されてしまいます。貧しい農民や労働者にとってはありがたい話ですが、機械や土地を取り上げられる立場の資本家や地主にとってはたまったものではありません。
だからこそ、富裕層は「反社会主義」を掲げるファシスト党を支持したのです。
一方でムッソリーニは、国家による 経済統制 を行うと宣言しました。仕事がない者には職場を提供し、物価が高ければ価格調整を行う、と宣言したのです。
こうして彼は、社会党に失望していた下層階級からも支持を集めることに成功しました。富裕層からも貧困層からも支持を得て、ファシスト党はさらに勢力を拡大していきました。
ムッソリーニは、イタリアが一つにまとまらない理由を、人びとが選挙でバラバラな政党を選ぶからだと考えました。つまり 議会制民主主義 を否定し、ファシスト党による独裁を主張したのです。
また、ファシスト党がイタリアの諸問題を解決する代わりに、国民の 言論の自由 を抑圧しようと考えました。ファシスト党の独裁に口出しをするな、というわけです。
ムッソリーニ率いるファシスト党が主張したこのような思想・体制を ファシズム(全体主義) と呼びます。ちなみにファシズムの考え方は、後に登場するドイツの独裁者 ヒトラー にも影響を与えることになりました。
ローマ進軍/ムッソリーニが首相に就任
1922年、ムッソリーニ率いるファシスト党の党員たちが武装し、ローマに向かって進軍する事件が起こりました。この事件を ローマ進軍 といいます。ムッソリーニは政府に圧力をかけ、政権を獲得しようと考えたのです。
政府はこれを鎮圧しようとしましたが、なんと国王がそれを許さず、ムッソリーニが内閣を組織することを承認したのです。こうしてムッソリーニは国王の支持を得て首相に就任することになりました。
一党独裁体制の確立
1924年、ムッソリーニは未回収のままであった フィウメを併合 し、国民からの人気を高めました。
その後ムッソリーニは、国民からの絶大な支持を背景に、ファシスト党の最高議決機関であるファシズム大評議会に権力を集中させました。ついに ファシスト党の一党独裁体制 が完成したのです。
さらに彼は アルバニアを保護国化 しました。保護国というのは、実質 植民地 と同じです。海外植民地を獲得したムッソリーニは、さらに権威を高めました。
ラテラン条約でローマ教皇庁と和解
1929年、ムッソリーニは ラテラン条約 を締結し、 ローマ教皇庁と和解 しました。
19世紀の イタリア統一 運動の中で、ローマ教皇領はイタリア軍によって併合されました。以来ローマ教皇庁とイタリア政府は断絶状態にあったのですが、ラテラン条約によって両者が和解することになったのです。
ラテラン条約により、イタリアはローマ市内の一部地域を、ローマ教皇が統治する ヴァチカン市国 として独立させることを承認しました。ヴァチカン市国は現在も存続しており、「世界最小の国」として有名です。
ヴァチカン市国の独立を認められた教皇側は、代わりに ムッソリーニ政府を承認 しました。イタリア国民の多くはキリスト教徒です。あのローマ教皇から承認されたということで、ムッソリーニはさらにイタリア国民の支持を集めることになりました。
このようにムッソリーニは、巧みな国内政策と外交で国民の支持を確固たるものにしていきました。
ポイントの2つ目は「ムッソリーニの独裁政治」です。