5分でわかる!北京にいる軍閥を倒せ!
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「北伐の流れ」です。
前回の授業では 中国国民党 と 中国共産党 が手を結んだお話をしました。これを 第1次国共合作 といいます。
国民党と共産党が手を結んだ理由は 北京に位置する軍閥政府を打倒するため でした。この授業ではいよいよ、革命軍が軍閥政府と戦うことになります。詳しく見ていきましょう。
五・三〇運動の発生
1925年、中国国民党のリーダー 孫文 が病死しました。彼の死は、革命を求める人びとにとってショックなできごとでした。
同年、上海の日本人が経営する紡績工場で中国人労働者がストライキを起こすと、イギリス人警官が発砲し死傷者が出るという事件がありました。これを五・三〇事件といい、この事件を受けて 反帝国主義運動 が全国に広がったことを 五・三〇運動 といいます。
北伐の開始
反帝国主義運動の高まりを受け、いよいよ北京にいる軍閥政府を打倒する動き(北伐)が始まりました。
1925年、中国国民党と中国共産党は 広州国民政府 を樹立し、北京に向かって2つのルートで進んでいきました。ルートを分けた理由は、国民党の中でも2つの派閥があったからです。
蒋介石 を指導者とする国民党右派は、共産党のことが嫌いでした。「反共的」なグループだったのです。一方 汪兆銘 (おうちょうめい)を指導者とする国民党左派は、共産党との協力を維持しようと考えていました。この姿勢を「容共的」と表現します。
上海クーデタをきっかけに国共分裂
1927年、蒋介石は、なんと上海で多くの共産党員を虐殺しました。これを 上海クーデタ といいます。
この事件の背後には、欧米列強の帝国主義勢力、地主、そして 浙江財閥 (せっこうざいばつ)の思惑がありました。これらの勢力は社会主義政党である共産党を警戒し、蒋介石に弾圧させたのです。ちなみに浙江財閥は、当時の中国経済を支配していた巨大財閥で、蒋介石もその一員でした。
上海クーデタを受け、国民党と共産党の協力関係は崩壊しました。これを 国共分裂 と表現します。
南京国民政府の樹立/北伐の再開と日本の干渉
その後、国民党右派のメンバーは 南京国民政府 を樹立しました。やがて左派も合流すると、蒋介石は北伐を再開しました。
当時北京にいた軍閥は 奉天派 と呼ばれる、日本の「あやつり人形」のような政権でした。奉天軍閥を倒されたくない日本は遺留民の保護を名目に 山東出兵 を行い、北伐を妨害しました。
ついに北伐が完成!
蒋介石は日本の妨害を振り切り北京に入ると、奉天軍閥の首領 張作霖 (ちょうさくりん)を破りました。すると日本軍(関東軍)は、逃亡する張作霖が乗った列車を爆破し、彼を殺害してしまいました。これを 張作霖爆殺事件(奉天事件) といいます。当時 遼東半島 付近に駐留していた日本の軍隊を関東軍といいます。
張作霖爆殺事件の後、息子である 張学良 が軍閥の実権を握りました。彼は日本に対抗するため、蒋介石率いる国民政府に降伏しました。
こうして北伐は完成し、国民政府が中国を統一することになりました。
戦間期のアジア諸地域、第2回。
今回は「北伐と中国共産党の動向」について学習します。