5分でわかる!日本の軍国主義化
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「日本の軍国主義化」です。
第一次世界大戦後、日本が中国に侵略する様子を見ていきましょう。
植民地の獲得を狙う日本
第一次世界大戦後、アメリカを中心にワシントン会議が開催され、東アジア・太平洋地域における国際秩序(ワシントン体制)が成立しました。アメリカはアジアにおける日本の動きを警戒し、日本を抑えるための国際的な枠組みを作りだしたのです。
さらに悪いことに、日本は、世界恐慌の発生前に金融恐慌を迎えていました。そのうえ世界恐慌が発生すると、欧米諸国がブロック経済政策をとったため、日本は満足に貿易を行うこともできなくなったのです。
こうした状況の中、日本では「英仏のように植民地を獲得するべきだ!」という声が強くなり、軍部の発言力が増していきました。そして日本は、1910年に併合した朝鮮半島を経由して、中国東北部(満州)への進出を企みました。
満州事変と上海事変
1931年、遼東半島付近にいた日本の関東軍が 南満州鉄道を爆破 する事件が発生しました。これを 柳条湖事件 といいます。
日本は「中国の仕業だ」と言いがかりをつけ、中国東北地方への攻撃を始めました。ここから始まる日本と中国の武力紛争を 満州事変 と呼びます。
ここで日本は、ずる賢い作戦を考えました。満州侵略の動きから他国の目をそらすため、満州から遠く離れた 上海 で、日本人が殺害されたことを口実に中国軍を攻撃したのです。この事件を 上海事変 といいます。
狙い通り、欧米諸国はこの事件に注目しました。そして、他国が上海事変に気を取られている隙に、日本は満州に進出すると 満州国 を建国したのです。1932年に建国された満州国の執政には、清の最後の皇帝であった 溥儀(ふぎ) が就任しました。
リットン調査団の派遣/日本の孤立
満州国の建国に成功した日本ですが、さすがに他国も黙ってはいません。国際連盟は中国に リットン調査団 を派遣し、柳条湖事件をはじめとする、一連の事件を調査しました。
調査の結果、リットン調査団は 満州事変は日本の侵略行為である とする報告書を世界に公表しました。日本はこれに反発し、なんと 国際連盟を脱退 してしまいました。こうして、日本は国際的な孤立を深めていったのです。
加速する軍国主義
軍部が発言力を増す中、日本では大変な事件が起こりました。1932年、首相の 犬養毅 が軍部に暗殺されてしまったのです。これを 五・一五事件 といいます。また、1936年には、陸軍が国の重臣や閣僚などを暗殺する 二・二六事件 が発生しました。
こうして、軍部の発言力はさらに強まり、日本の政治は軍部に掌握されることになりました。1930年代の日本では 軍国主義化 が進んでいったのです。
世界恐慌とファシズム諸国の侵略、第3回。
今回は「日本の中国侵略」について学習します。