5分でわかる!西アジア諸地域の動き
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この動画の要点まとめ
ポイント
イランの石油を守れ!
イランでは、1925年からパフレヴィー朝という王朝が成立していました。この王朝は生き残りのためにイギリス・アメリカに友好的な外交を展開しており、両国はこれを利用してイランの石油を買いたたき、利益を独占していました。
1951年に首相となったモサデグは「イランの石油はイランのものだ!」と主張。ちなみに、自国の資源を守り、外国には渡さないという考え方を資源ナショナリズムといいます。
モサデグは、イギリスの石油会社の施設を接収するなど石油の国有化を進めました。しかし英米がこれに反発し、イラン国王に圧力をかけます。最終的にモサデグは国王派のクーデタで失脚してしまいました。
パフレヴィー2世による近代化改革
モサデグ失脚後は、国王パフレヴィー2世が上からの近代化を進めました。彼は英米の支援のもと、農地改革や工業化などさまざまな政策を実施したのです。この改革を「白色革命」といいます。
近代化改革は、一定の成果をあげる一方で社会に混乱をもたらしました。例えば、この改革でイランでは貧富の差が拡大することになったのです。
以上のように、モサデグ失脚後のイランは新英米的な政策を展開していくことになりました。
パレスチナをめぐる問題
続いてはパレスチナに注目します。この地域にはアラブ人とユダヤ人が住んでおり、人数的にはアラブ人が多数を占めていました。
第二次世界大戦後、イギリスがこの地域の委任統治を終了すると、エジプトを中心とするアラブ諸国は、アラブ人による独立国家の建設を支援するためにアラブ諸国連盟を結成しました。
ただし、パレスチナには少数ですがユダヤ人も暮らしています。彼らを無視して、アラブ人だけに国家の建設を認めるわけにはいきません。そこで国際連合はパレスチナ分割案を採択。パレスチナをだいたい半分に分け、アラブ人とユダヤ人それぞれに分配するという案でした。
アラブ人はこれに不満を持ちました。人数は圧倒的にアラブ人の方が多いのに、土地の配分がユダヤ人とほぼ同じというのが気に入らなかったのです。一方ユダヤ人は分割案に納得。パレスチナ地方にイスラエルを建国しました。
アラブ諸国はイスラエルの建国に反発し、アラブ人とユダヤ人の対立は決定的となります。こうして1948年に パレスチナ戦争(第1次中東戦争) が勃発したのです。
この戦争はイスラエルvsアラブ諸国連盟という構図でしたが、イスラエルのバックにはアメリカがついていました。この戦争は、アメリカから武器や兵器を供給されたイスラエルが勝利したのです。
イスラエルは領土を拡大し、アラブ人を追い出しました。この戦争では、約100万人ものパレスチナ難民が生まれる事態となったのです。
以上、西アジア地域の動きを学習しました。イランとパレスチナの動き、それぞれをしっかり覚えておきましょう。
ポイントの2つ目は「中東地域の独立」です。
第二次世界大戦の西アジア、中でもイランとパレスチナ地域動向に注目します。