5分でわかる!イラン=イスラーム共和国の成立
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この動画の要点まとめ
ポイント
ポイントの1つ目は「イラン革命」です。
戦後のイランでは革命が起こり、国の体制が王政から共和政へと移行していきました。それに伴い、外交方針でも大きな転換がありました。詳しく見ていきましょう。
「上からの近代化」を進めたパフレヴィー2世
第二次世界大戦中の1941年から、イラン国王 パフレヴィー2世 は上からの近代化(国王主導の改革、という意味です)を推進しました。ちなみに彼が行った改革を「白色(はくしょく)革命」といいます。
パフレヴィー2世は、内政においても外交においても親米・親英路線をとり、反共組織であるバグダード条約機構(中東条約機構・METO)の一員となりました。ちなみにこの組織は、1959年にイラクが脱退したことで中央条約機構(CENTO)と改称されましたが、イランはCENTOにも加盟しました。
イラン=イスラーム革命の勃発
パフレヴィー2世による改革は、結果として 貧富の差を拡大 することになりました。貧しい人々は見捨てられ、国王や、米英資本にすり寄る者はどんどん裕福になっていったのです。
国民の不満は次第に高まり、1970年代末に イラン=イスラーム革命 が起きました。革命を指導したのは、イスラーム教 シーア派 の指導者 ホメイニ という人物でした。
ちなみにシーア派はイスラーム教の中で少数派で、人口比率では全イスラーム教徒の約1割。残り9割は多数派のスンニ派です。しかし、イランでは 国民の9割以上がシーア派 となっています。かつてサファヴィー朝ペルシアの時代にシーア派が国教とされた名残です。
イラン=イスラーム共和国の成立
ホメイニは、革命にあたり イスラーム原理主義 を掲げました。これは、本来のイスラーム教の教えに厳格に従うべきだとする考え方です。国王パフレヴィー2世は1979年に亡命し、同年にホメイニらは イラン=イスラーム共和国 を樹立しました。
イランはこれまでの路線を一変し 反米・反英 外交を展開。イラン国内で採掘する石油の量を大幅に削減しました。その結果、世界中で石油が不足する事態となり 第2次石油危機 (オイル=ショック)が発生しました。
反米路線をとり、産油量を削減したイランに対し、アメリカは反発を強め イランとの国交を断絶 しました。イラン=イスラーム革命の結果、国王が亡命し共和国が樹立されたものの、対外的にはアメリカとの関係が悪化したということをおさえておきましょう。
アジア諸地域の紛争、第6回。
今回は「イラン革命」について学習します。