5分でわかる!ついに解決!?パレスチナ暫定自治政府!
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この動画の要点まとめ
ポイント
イスラエルによるアラブ人の弾圧
1981年にエジプトのサダトが暗殺された後、イスラエルは エジプト=イスラエル平和条約 に基づき シナイ半島 をエジプトへ返還しました。
その後、イスラエルは レバノンに侵攻 し、同国にある パレスチナ解放機構(PLO) の本部を攻撃。エジプトとは平和条約を結んだパレスチナでしたが、依然としてアラブ人への弾圧を緩めることはなかったのです。
イスラエルによる弾圧に対し、パレスチナ人(=パレスチナに住むアラブ人)たちは インティファーダ と呼ばれる大衆的抵抗運動を展開しました。イスラエル占領地域で、人々がイスラエル軍に対し石を投げつけるなどの抵抗運動を行ったのです。
もちろん、武器も持たない民衆がイスラエル軍に勝てるはずはありませんが、この様子が世界に報道されると アラブ人に同情する国際世論 が高まることになりました。
イスラエルとパレスチナが和解!
国際世論の後押しもあり、1993年、ついにイスラエルとパレスチナの歩み寄りが実現しました。イスラエルの首相ラビンと、PLO(パレスチナ解放機構)議長の アラファト が、アメリカのクリントン大統領の仲介で パレスチナ暫定自治協定 を締結したのです。
ちなみに、ノルウェーの外務大臣がパレスチナとイスラエルの和平合意を仲介したことから、ノルウェーの首都名をとってオスロ合意ともいいます。
協定にもとづき、1994年にパレスチナのガザ地区などで暫定自治政府が成立。パレスチナ人による自治が行われました。イスラエルがアラブ人に歩み寄ったことは、世界中から称賛されました。
ちなみにこの写真の左に写っているのがラビン、右がアラファト、中央がクリントンです。
ラビン暗殺!アラファトも死去・・・
ようやくパレスチナ問題は解決に向かっていくのか...と思いきや、なんと1995年、イスラエルの首相ラビンが暗殺されてしまいました。ラビンを「裏切り者」だと非難するユダヤ教徒の青年が犯行に及んだのです。
この事件以降、イスラエルは和平に対し消極的になっていきました。さらに2004年には、PLO議長のアラファトが死去したのです。
2001年にイスラエル首相となったシャロンは、中東和平交渉を停止し、ガザ地区に壁を建設してアラブ人居住区を隔離しました。20世紀後半にイスラエルとパレスチナは歩み寄りを見せたものの、パレスチナ問題は現在でも未解決なのです。
ポイントの2つ目は「パレスチナ暫定自治協定」です。
パレスチナ地方をめぐるアラブ人とユダヤ人の対立関係が、大きく変化していく様子を学習します。