5分でわかる!『魏志』倭人伝
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この動画の要点まとめ
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『魏志』倭人伝には3世紀の日本が書かれている
卑弥呼 (ひみこ)という女性と、彼女が統治した 邪馬台国 (やまたいこく)という国の名前は、中学の歴史の授業でも見たことがあると思います。
その邪馬台国の様子が分かる史料が、 『魏志』倭人伝 です。
『三国志』で有名な魏・呉・蜀のうちの一国である魏の記録です。
『魏志』倭人伝には、 帯方郡 (たいほうぐん)の海の向こうに倭人がいて、 30国 ほどに分かれていた、と書かれています。
『漢書』地理誌では、 楽浪郡 の海の向こうに倭人がいて、 100余りの国 に分かれていた、と書かれていたのを覚えているでしょうか。
今回の『魏志』倭人伝では、少し記述が変わっていますね。
朝鮮半島の地名として、『漢書』地理誌で登場した 楽浪郡 が分割され、 帯方郡 という新たな地名になりました。
そして、100余りの国が30国に減った、というのは、戦いがあって、弱い国が強い国の一部となることを繰り返して、 国の統一が進んでいった 、ということを示しています。
また、魏や帯方郡の位置は、地図でも確認しておきましょう。
邪馬台国がどこにあったかは諸説ある
『魏志』倭人伝の中に書かれた日本の記述は長いので、3つの部分に分けて見ていきます。
上の1~2行目に、『後漢書』東夷伝では百余国もあった倭の小国が争いと吸収を繰り返し、三十国まで減っている、ということが書かれています。
その後、3~4行目には邪馬台国の位置や身分制度についても書かれています。
ちなみに、3行目の前半、上の史料では「…」で省略されている部分には、中国から邪馬台国への行き方も書かれています。
しかし、邪馬台国の場所には諸説あるため、テストなどで邪馬台国の場所が問われることはほぼありません。
それでは、『魏志』倭人伝の続きを見ていきましょう。
邪馬台国の女王、卑弥呼
ここでは1行目に、 邪馬台国 に 卑弥呼 という女王が即位したことが書かれています。
卑弥呼は鬼道(きどう)と呼ばれる力を用い、弟の助けを得て政治を行っていたようです。
この鬼道とは、占い・まじないなどの呪術の力のことです。
3行目の「景初二年」(西暦239年)の記述によれば、卑弥呼は 魏 の皇帝のもとに、使者として大夫難升米という人を送ったようです。
使者が来たことを受けて、魏の皇帝は卑弥呼に「 親魏倭王 」(しんぎわおう)の称号を与え、さらに 金印 、 銅鏡 百枚なども与えた、と書かれています。
同じような話が、『後漢書』東夷伝にも出てきていましたね。
『後漢書』東夷伝では、「 漢委奴国王 」という称号が出てきました。
金印は光武帝が奴の国王に与えたもので、江戸時代に発見されています。
一方、卑弥呼に送られた称号は「 親魏倭王 」で、このとき送られた金印は未だに発見されていません。
卑弥呼の死後、壱与という女性が王となった
卑弥呼が亡くなった時、大きな墓を作ったようです。
奴隷が100人ほど、いけにえとして一緒に殺されたとも書かれています。今では考えられないですよね。
その卑弥呼の死後、邪馬台国では男性の王様を立てたが国がまとまらず、国の中で戦が起こったことが書かれています。
新たに即位した男の王による統治は上手くいかなかったのです。
その後、十三歳の 壱与 (いよ、とよ)という女性を王とすることで争いは収まったようです。
『魏志』倭人伝には、当時の様子を知ることができる多くの記述があります。
史料の内容の中でどこを覚えればよいのかを、改めて次のポイントでまとめてみましょう。
今回は、前回の『漢書』地理誌と『後漢書』東夷伝に引き続き、中国の歴史書に書かれた日本について学びます。
今回扱うのは 『魏志』倭人伝 (ぎしわじんでん)です。
まず1つ目のポイントとして、『魏志』倭人伝に書かれた内容を詳しく見ていきましょう。