高校日本史B
5分でわかる!推古天皇の政治(遣隋使など)
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推古天皇の政治(遣隋使など)
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ポイントの解説授業
対等な外交を求めて送られた遣隋使
推古天皇の一代前である崇峻天皇の時代、589年に 隋 という国が中国を統一しました。
607年、つまり7世紀の初め、推古天皇は隋と国交を結ぶために、 小野妹子 を使節とした 遣隋使 を送ります。
この遣隋使は、ヤマト政権までの朝貢外交(日本が貢物を持ってへりくだる)ではなく、 対等な外交を求めて派遣されました 。
使節 小野妹子 が持参した手紙は、隋の皇帝煬帝(ようだい)を激怒させました。
日本の天皇を「日出づるところの天子」、隋の皇帝を「日没するところの天子」と書いたことが原因と言われます。
しかし、隋にも事情があり、煬帝は怒りながらも日本に対してしっかりとお返しの使いを送りました。
その翌年にも、「お返しのお返し」という形で、 小野妹子 を使節とした 遣隋使 が送られました。
その際には留学生・留学僧として 高向玄理 (たかむこのげんり)、 旻 (みん)、 南淵請安 (みなぶちのしょうあん)が同行しました。
彼らは隋の政治や仏教を学び、その後の日本に貢献することになります。
日本の歴史を記した天皇記と国記は現存していない
620年には、歴史書である「 天皇記 」や「 国記 」が編纂されました。
しかし、ともに消失してしまい、現存していません。
この天皇記と国記の代わりに、後の時代に古事記や日本書紀が作られていった、と考えられています。
続けて、同じ推古天皇の時代に派遣された 遣隋使 を中心に見ていきましょう。