5分でわかる!聖武天皇の治世(長屋王・藤原四子の時代)
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この動画の要点まとめ
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今回の一つ目のポイントは、この聖武天皇の治世のうち、長屋王や藤原四子が権力を持っていた時代について見ていきます。
長屋王、自殺に追い込まれる
元正天皇の後で即位した 聖武天皇 は、土地制度や仏教を政治に取り入れるなど様々な改革を行いました。
この時代、まずは元正天皇の代に実権を握った 長屋王 が、聖武天皇即位後も引き続き政治の実権を握っていました。
朝廷は、東北の民である蝦夷対策として、今の宮城県にある 多賀城 (たがじょう)を 鎮守府 (ちんじゅふ)という役所とします。
そしてこの多賀城を拠点に、蝦夷対策を行っていくことになります。
そんな中、 長屋王 が自殺に追い込まれます。これを 長屋王の変 といいます。
長屋王を自殺に追い込んだのは、長屋王の前に権力を握っていたのは藤原不比等の4人の息子たちでした。
彼らは権力を自分たちのものにするため、妹の 光明子 (こうみょうし)を聖武天皇の后にしようとしていました。
長屋王は、皇族ではない藤原氏の女性が天皇の后になることに反対していたため、不比等の4人の息子たちに謀反の疑いをかけられてしまうことになったのです。
藤原四子が権力を握るも、天然痘で全員死亡
このようにして、長屋王の後、藤原不比等の息子4人がで政権を担当しました。彼らをまとめて 藤原四子 と呼びます。
年上の順に、 武智麻呂 (むちまろ)、 房前 (ふささき)、 宇合 (うまかい)、 麻呂 (まろ)の4人です。
彼らは 藤原光明子 を聖武天皇の皇后にすることで政治への発言権を強めました。
長屋王の変の後、光明氏は皇后となりましたが、まもなく藤原四子は天然痘により相次いで亡くなっています。
ちなみに、この後藤原氏は、この4人を先祖とする4つの家が発展します。
武智麻呂の子孫が南家、房前の子孫が北家、宇合の子孫が式家、麻呂の子孫が京家です。
この4家は、この後の時代に何度も出てきて、様々な活躍をしていくこととなります。
今回は、奈良時代のメインとも言える、聖武天皇の治世について見ていくことになります。
聖武天皇の在位期間中は、政権担当者が何度か入れ替わっているため、誰が実権を握っていたかも合わせて押さえていきましょう。
奈良時代を通じて、藤原氏と、藤原氏じゃない人が交互に政権担当者になっていた、と知っておくと、覚えやすいです 。