5分でわかる!奈良・平安時代の外交
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この動画の要点まとめ
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平安時代まで長く続いた遣唐使
遣唐使 は630~838年まで、何度も実施されました。
630年は飛鳥時代、聖徳太子の少し後の時代で、838年は平安時代です。つまり、飛鳥時代から奈良時代、平安時代と長く行われていたというわけです。
この遣唐使は、4隻の船で一斉に渡航していたので「 よつのふね 」といいました。
ただ、4隻全てが安全に目的地(唐)に着くことは少なく、数隻難破してしまったりと、危険な航海でした。
この遣唐使は、外交を行うだけでなく、留学生を送って政治や仏教を日本に持ちかえる目的もありました。
橘諸兄を補佐した吉備真備や玄昉のように、帰ってきて日本で政治を補佐する者もいましたが、一方でそのまま唐に仕えることになり、帰国しなかった者もいます。
有名なのは、 阿倍仲麻呂 (あべのなかまろ)と藤原清河(ふじわらのきよかわ)です。安倍仲麻呂は帰国を望んでいましたが、皇帝から高い評価を受けていたため、引きとめられたといわれます。
阿部仲麻呂は、日本が懐かしい、という内容の詩を残しています。
時期によって航路が変わった
遣唐使の航路は、当初は朝鮮半島沿いの 北路 でしたが、直接渡海する 南路 へと変わっていきます。
地図でも、大まかな航路を確認しておきましょう。
航路が変わったのは、飛鳥時代の 白村江の戦い で新羅との関係が悪化したことと、航海技術が発達したからです。
ただ、南路は危険な航路であったため、船が難破することも多かったようです。
その遣唐使は894年、 菅原道真 (すがわらのみちざね)の建議により廃止されました。「白紙(894)に戻そう遣唐使」という語呂合わせが有名ですね。
新羅や渤海とも交流があった
唐以外の国との関係も見ていきましょう。
新羅 は676年に朝鮮半島を統一しました。
新羅使などで交流はありましたが、白村江の戦い以降、日本との関係は良くなかったので、あまり活発な付き合いがあったとはいえません。
テストにも余り出ることはないでしょう。
一方で大事なのは。唐の北東にできた 渤海 (ぼっかい)という国です。
日本はこの 渤海 と良い関係を築きました。
上の地図で、渤海と結ばれている線が日本海側の各地に繋がっていることが分かるでしょうか。
このように、 渤海使 は日本海側に来日し、越前の 松原客院 (まつばらきゃくいん)、能登の能登客院という場所に滞在しました。
奈良時代の前後、日本が唐・新羅・渤海という3つの国と関係を持っていた、ということを押さえておきましょう。
平安時代に入る前に、奈良時代~平安時代の外交の歴史を見ていきましょう。