高校日本史B
5分でわかる!藤原基経・宇多天皇の時代
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この動画の要点まとめ
ポイント
藤原基経の時代
これでわかる!
ポイントの解説授業
関白になった藤原基経
清和天皇の次に皇位に就いたのは陽成天皇でしたが、基経は強引に譲位させ、 光孝天皇 (こうとくてんのう)が即位しました。
光孝天皇は基経に「天皇にさせてもらった」という恩義があり、成人の天皇でありながら、政治を基経に預けてしまいます。
こうして、基経は実質的な 関白 に就任しました。
しかし、光孝天皇の跡を継いだ 宇多天皇 (うだてんのう)は藤原氏の介入を嫌い、自身が政治を執ろうとします。
そこで、正式に関白に就任することを求めた基経に対して、宇田天皇は関白ではなく「阿衡」という、中国にあった位を与えます。
これに対して基経が仕事をボイコットする 阿衡の紛議 (あこうのふんぎ)を起こします。
基経がいないと政治が回らなかったため、結局、宇多天皇は基経を関白に任命することになり、基経の権力はより強大なものとなりました。
基経の死後、自分で政治を行おうとした宇多天皇
宇多天皇は藤原氏に頼らず政治を行うために、基経が亡くなった後、優秀な学者であった 菅原道真 (すがわらのみちざね)を、天皇の秘書官である蔵人頭(くろうどのとう)に就かせます。
そして、藤原氏を摂関に置かず、天皇自ら政治を行う「親政」行いました。この宇多天皇の親政を、「寛平の治」と呼ぶこともあります。
一方、権力を取り戻したい藤原氏は、菅原道真を遣唐使に派遣することで政治から引き離そうとします。
菅原道真は宇多天皇に遣唐使に任命されますが、自身の建議で894年に 遣唐使廃止 を天皇に決意させました。
「白紙(894)に戻そう遣唐使」という語呂合わせでも有名ですね。
これにより、菅原道真は唐に行かずに済み、政治の中心に留まることになりました。
2つめのポイントでは、 藤原良房 の次、 藤原基経 の時代について見ていきましょう。