5分でわかる!9世紀~10世紀初めの公領
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この動画の要点まとめ
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今回は、その荘園公領制という、平安時代に出てきた土地制度について学んでいきます。
ややこしく、理解しにくい部分ではありますが、まずは講義をしっかり理解し、問題で確認する、という流れでマスターしていきましょう。
まず1つ目のポイントは、平安時代の前半にあたる、9世紀~10世紀初めの土地制度について見ていきましょう。
直営田で国家収入が減り、対策として延喜の荘園整理令が出された
まずは、荘園公領制というものができあがる少し前から見ていきましょう。
律令制の政治のもとでは、朝廷が管理する公領(または国衙領(こくがりょう))の一部を、民に口分田という形で貸し出していました。このしくみを班田と言いましたね。
そして、国から派遣された国司がこの口分田から税を徴収することで、国家の収入が確保されていました。
しかし9世紀ごろになると、土地が荒れたり、戸籍が作られなくなったりして班田の維持が困難になります。
すると、大宰府や貴族・皇族が口分田の一部を直営田(ちょくえいでん)として勝手に使うようになりました。
この直営田には大宰府の公営田、政府役所の官田などがあり、政府の財政難を補いました。しかし、どれも口分田からの税収ではないため、律令制に合わないという問題点がありました。
そこで、902年に、醍醐天皇(だいごてんのう)が延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)を出し、律令制に合わない土地経営を禁止するとともに最後の班田を実施しました。
しかしながら、この政策は失敗し、土地制度の転換を迫られる事態になっていきます。
延喜の荘園整理令が出されるまでを図で振り返ってみよう
分かりにくい部分もあるので、図を使ってもう一度説明していきます。
まず、上の図は、とある国と考えてください。
土地は基本的に全て国家のもの(公地公民という考え方)で、その土地を口分田として民に分け与えて、そこから税をとっていました。
しかし、税が重かったことなどから、土地から逃げる人も出てきます。(逃散(ちょうさん)といいます)
すると、図の左側にあるように、その余った土地を直営田という形で、貴族が勝手に使い始めてしまいました。
直営田は政府の財政難を補う面もありましたが、公地公民という律令制の考え方に合わないという問題点もありました。
そこで、醍醐天皇が律令制に合わない土地経営を禁止する延喜の荘園整理令を出します。
しかし、この政策は上手くいくことなく終わってしまった、という流れです。
今回から、「中世」という大きな時代の区分に変わります。
多くの教科書でも、土地制度では今回学ぶ荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)、政治では院政(いんせい)という政治体制から、中世というくくりになっています。
今回出てくる荘園は、奈良時代・平安時代に基礎が作られていった制度ですが、この制度は後の鎌倉時代や室町時代にも、少しずつ形を変えながら続いていく制度なので、中世にくくられています。