5分でわかる!寄進地系荘園
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この動画の要点まとめ
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そもそも、何で寄進するの?→国司の介入を防ぐため!
そもそも、なぜ 開発領主 はせっかく自分で開墾した土地を 寄進 してしまうのでしょうか。
そこには、国司の存在が絡んできます。
開墾した土地は、基本的に税金のかかる田んぼとなります。
そのため、せっかく土地を開墾しても、国司から「税金をよこせ!」と言われてしまいます。
開発領主は、高い税金を払いたくありません。
そこで、まず自分の土地を都にいる貴族や寺社などの有力者に 寄進 して、自分は現地管理人である 荘官 になります。
そして土地の所有権を渡す代わりに、有力者から 不輸の権 、 不入の権 という特権を得ます。
不輸の権は、 土地が税金の対象とならない権利 、不入の権は国司が派遣するような 役人の立ち入りを拒否する権利 です。
こうして、 寄進することで高い税を要求する国司の介入を防ごうとした のです。
例えば、自分で開墾した土地から「500」の収入を得ていた開発領主がいたとします。
そこで、国司から「300」の税を要求されたとしましょう。このままだと、500のうち300を払って、 200しか手元に残りません 。
それならば、ということで有力者に土地を寄進し、国司の介入を防ぐ 不輸の権 、 不入の権 を得て、代わりにその有力者に「200」を払うことにすれば、 手元には300残ることになり、お得 ですね。
このようにして、寄進地系荘園の仕組みができあがっていきました。
荘官が田堵と契約して耕作させ税を納めさせる、という現地の流れ
自身で開墾した土地を寄進して、 荘官 となった人々は、有力農民である 田堵 と契約します。
そして、荘官は田堵に 年貢 (ねんぐ)・ 公事 (くじ)・ 夫役 (ぶやく)と呼ばれる税や労役を課しました。
この年貢や公事といった税は、江戸時代くらいまで続くことになります。
その田堵は、前回公領で学んだ流れと同じで、作人や下人・所従と呼ばれる小作人を使って、土地を耕作したり、労役を行わせたりしました。
ちなみに、荘官は日本全国各地によって呼び名が変わり、預所、下司、公文などと呼ばれることもありました。
そして、これらの荘官と契約した田堵を、後に名主と呼ぶようにもなりました。
土地を寄進された領家が時に本家に再寄進することもある、という都の流れ
土地を寄進された人のことを、 領家 と言います。
その領家は、 寄進された土地を自分よりも更に有力な貴族・寺社などに土地を再寄進する こともありました。
この再寄進される側を、本家といいます。
再寄進は何度か行われることもあり、最終的な荘園の持ち主となった人のことを、本所といいます。
藤原氏の収入源となっていた荘園を潰すため、延久の荘園整理令が出された
このように、寄進が全国で行われるようになり、領家が更に本家に再寄進する、ということを繰り返して、最終的には大貴族が荘園の持ち主(本所)となることが増えていきました。
藤原氏も、この寄進地系荘園のシステムを使い、荘園から莫大な財源を得て、政治を行っていきました 。
一方で、寄進地系荘園は税を免除される 不輸の権 を得ていたため、土地からの税収が国家にいかなくなってしまいます。
その対策のため、 後三条天皇 が1069年に 延久の荘園整理令 を出し、記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)を作って荘園の廃止を目指しました。
後三条天皇は、 荘園を廃止することで藤原氏の力を削り、国司を通じて天皇の下に再び税収が集まるように しました。
そして後三条天皇以降、天皇の政治の復活、そして上皇による政治( 院政 )が行われる基盤が作られることになります。
このように、少し理解しにくい土地制度ですが、政治の流れとも強く結びついているんだ、ということを意識すると良いでしょう。
3つ目のポイントでは、寄進地系荘園がどうして生まれ、どのように運営されていたたのか、その構造を見ていきましょう。