5分でわかる!平氏政権の成立
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この動画の要点まとめ
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外戚政策で権力を握り、知行国・荘園・日宋貿易で財を得ていた
平清盛 の政権は、清盛が六波羅(ろくはら)と呼ばれる場所にいたことから、六波羅政権とも呼ばれます。
その清盛は、権力掌握のため、藤原氏が行った 外戚 政策を行います。
外戚政策とは、自分の娘を天皇の后にして、その子どもを次の天皇にすることで、天皇の母方の祖父として実権を握る方法でしたね。
平氏政権の経済基盤の一つは、上皇による 院政 と同じく、多くの 知行国 の公領からの収入と、私有地である 荘園 からの収入でした。
知行国とは、天皇から支配権を渡された国のことです。
平氏政権にはもう一つ、大きな経済基盤がありました。
それが、中国の宋との間で行われた 日宋貿易 です。
正式な国交(国同士の交わり)はありませんでしたが、摂津の 大輪田泊 (おおわだのとまり)という港を中心に貿易が盛んに行われました。
この 日宋貿易 で、銅貨である 宋銭 が大量に輸入されます。
この後、日本国内でこの宋銭が流通して、使われていくことになります。
ちなみに、大輪田泊の「輪」の字は、「和」や「輸」と間違えやすいので注意しましょう。
太政大臣にもなった平清盛を打倒するため、鹿ケ谷の陰謀が計画された
平氏政権の具体的な中身を見ていきましょう。
1167年、平清盛は 太政大臣 という、元々貴族しかなれない役職に就きます。
武士出身で太政大臣になったのは、他に、後の時代に出てくる足利義満と豊臣秀吉しかいません。それくらいすごいことでした。
平清盛を中心とする平氏たちが権力を握っていくことを面白く思わない者たちもいました。
特に、白河上皇や鳥羽上皇にならって院政を行おうとしていた 後白河上皇 は、なんとかして平氏を打倒したいと考えます。
そこで実際に、1177年、後白河上皇の仲間であった俊寛たちと共にクーデター(政権転覆)を計画します。これを、 鹿ケ谷の陰謀 (ししがたにのいんぼう)と言います。
しかしこの計画は、密告によって、実行される前に阻まれました。実行されずに終わったため、「陰謀」という名前がついています。
この計画に関わった後白河上皇(このときは、出家していたため後白河法皇とも言います)は、清盛に幽閉されてしまいました。
今回は、 保元の乱 ・ 平治の乱 に勝利した 平清盛 が、政治の実権を掌握していく過程と、実権を握った後の政治について見ていきましょう。
1つ目のポイントは、 平氏政権の成立 です。