高校日本史B
5分でわかる!治承・寿永の乱(源平の争乱)―後半―
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治承・寿永の乱(源平の争乱)―後半―
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ポイントの解説授業
関東から動かない源頼朝が、寿永二年十月宣旨で重い腰を上げた
平清盛が亡くなると、幽閉されていた 後白河法皇 が再び院政を始めます。
この頃、日本での勢力争いは、以下の図のようになっていました。
京都では、元々平氏打倒のために挙兵した 源義仲 (みなもとのよしなか)が入っていましたが、この頃、義仲が自分勝手に暴れるようになっていました。
一方で、関東では 源頼朝 (みなもとのよりとも)が地盤を固めて動かず、東北では 奥州藤原氏 (おうしゅうふじわらし)が勢力を誇っていました。
清盛を亡くした平氏は、義仲に追いやられはしましたが、中国・四国・九州など西日本に散らばって、まだ勢力を保っていました。
そこで後白河法皇は、平氏を滅亡させたいと考えましたが、源義仲が京都で暴れていたため、源頼朝を頼ろうとします。
関東から動かない頼朝を動かすため、後白河法皇は 寿永二年十月 (じゅえいにねんじゅうがつ)に、頼朝に東海道、東山道の支配権を与える 宣旨 を出します。
頼朝に関東(東海道・東山道)の支配権を保障し、代わりに義仲と平氏を倒してもらおうとしたのです。
この関東の支配権が、後に鎌倉幕府を置く布石になります。
平氏を滅亡させる戦いに、頼朝の弟たちが出陣
源頼朝は、鎌倉に残ったまま、弟である源範頼(みなもとののりより)と、 源義経 (みなもとのよしつね)に兵を任せ、平氏の追討に送り出します。
範頼や義経たちは、 一ノ谷の戦い (いちのたにのたたかい)、屋島の戦いと勝利を重ねていきます。
一方の平氏は、戦いに敗れるにつれて西に逃げていきます。
最終的に、 1185年 の 壇ノ浦の戦い (だんのうらのたたかい)で決着がつき、平氏は滅亡することになりました。
今回は、前回の続きで、源氏と平氏が争った 治承・寿永の乱 (じしょう・じゅえいのらん)の後半部分を見ていきましょう。
権力を握った平清盛が亡くなった後、平氏が滅亡し、鎌倉幕府が出来るところまでになります。