5分でわかる!北条義時の時代
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この動画の要点まとめ
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義時が、侍所別当の和田義盛を倒し、執権という地位を確立
この、 侍所と政所の別当を兼務する人物 を 執権 と呼ぶようになります。
こうして 執権 という地位がここで確立し、これ以降、 北条氏が代々引き継いでいく ことになります。
ちなみに、執権という地位自体は義時の時代に確立しましたが、前の時政もさかのぼって、初代執権といわれます。
3代将軍の源実朝が殺害され、北条氏が幕府を掌握した
3代将軍 源実朝 は、政治に興味がなかったとはいえ、頼朝の子として人気もある程度持っていました。
しかし実朝は、 鶴岡八幡宮 (つるがおかはちまんぐう)で、2代将軍の源頼家の子である 公暁 (くぎょう)の手により殺害されてしまいます。
こうして実朝が死んだことで、北条氏が幕府を掌握することに成功しました。
そのためこの事件も、北条義時による陰謀ではないか、といわれています。
東の幕府と西の朝廷が、1221年の承久の乱で激突
鎌倉幕府内での権力を固めた北条氏ですが、このときの鎌倉幕府はまだ日本全土を支配していたわけではありません。
東国(東日本)は、 北条義時 を中心とする幕府の支配下でした。
しかし、西国(西日本)はまだ朝廷の支配下で、 後鳥羽上皇 (ごとばじょうこう)による院政などが行われている、という状況でした。
この状況を、公武二元支配、とも言います。
こうして、北条義時と後鳥羽上皇は自然と対立するようになり、 1221年 、ついに朝廷と幕府の間で 承久の乱 という戦いが起こります。
北条政子の檄で、御家人たちが奮起し、幕府が承久の乱に圧勝
承久の乱 の発端は、朝廷の 後鳥羽上皇 が 北条義時 追討の院宣を出したことでした。
これを受けた義時は、後鳥羽上皇が兵を集めるのに先んじて、自分の子の 北条泰時 と弟の 北条時房 の軍を派遣しようとします。
元々御家人は、 戦時になると将軍の下に参じて戦いに参加 する 奉公 を行う必要がありました。
しかしながら当初、朝廷と戦うこともあって御家人の士気は低く、幕府の元には数十人しか集まらなかったようです。
そこで、頼朝の奥さんである 北条政子 が御家人たちに、「今戦わないで、いつ幕府と頼朝に恩返しをするんだ!」という檄をとばしました。
これによって御家人たちが奮起し、 北条泰時 と 北条時房 に率いられて京都に攻め入り、結果は幕府の圧勝に終わりました。
承久の乱 以降、幕府の支配地域は、九州を除いた西日本一帯にまで大きく広がっていくことになります。
このように、鎌倉時代前半の大きなターニングポイントとなった 承久の乱 は、しっかりと押さえておきましょう。
時政の跡を継いで2代目執権となったのは、息子の 北条義時 (ほうじょうよしとき)です。
義時は時政と同様、 ライバル潰しを行います 。
義時は、和田合戦で、御家人を統率する 侍所 の初代別当であった 和田義盛 を破りました。
そして義時は、和田義盛が就いていた侍所別当に就任します。
政所別当の座は時政から引き継いでいたので、義時は侍所と政所の別当を兼務することになりました。