高校日本史B
5分でわかる!北条貞時の時代
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この動画の要点まとめ
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得宗専制体制の確立
これでわかる!
ポイントの解説授業
元寇のあと、鎮西探題が設置された
北条時宗の後に執権となった 北条貞時 は、元寇を受けて九州に 鎮西探題 (ちんぜいたんだい)を設置し、九州の支配権を今までよりも強固なものとしました。
藤原氏のトップ、得宗とその仲間たち
この頃、北条氏の中でも、 得宗 (とくそう)と呼ばれる人に権力が集中するようになっていました。
得宗とは、 北条氏の嫡流 (跡継ぎの血筋)のことです。つまり、北条氏のトップのことです。
この時代だと、北条貞時が執権でもあり、得宗でもあったことになります。
その 得宗と主従関係を結んだ人 のことを 御内人 (みうちびと)と言います。
さらに、その 御内人の中でも一番の有力者 を 内管領 (うちかんれい)と言いました。
つまり、将軍と御家人が御恩と奉公による主従関係で結ばれているように、北条氏のトップである得宗と御内人が主従関係を結んでいたのです。
霜月騒動で得宗専制体制が確立
得宗が強くなると共に、 御内人や、そのトップである内管領の影響力もだんだんと強くなっていきます 。
そんな中、1285年に、 霜月騒動 (しもつきそうどう)という事件が起こります。
内管領 の平頼綱(たいらのよりつな)が有力御家人の足立泰盛(あだちやすもり)を破り、滅ぼした事件です。
この事件の結果、将軍側の御家人が負け、得宗側の内管領が勝ったため、 得宗専制の体制が確立します 。
さらに、霜月騒動で勝利した平頼綱(平禅門という名になっていました)も、1293年、平禅門の乱で北条貞時に滅ぼされます。
こうして、得宗の決定が優先される得宗専制政治が、さらに推し進められていくことになりました。
最後に、元寇の後、 北条貞時 (ほうじょうさだとき)の時代に起きた出来事について見ていきましょう。