高校日本史B
5分で解ける!鎌倉時代7 鎌倉時代の政治4に関する問題
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この動画の問題と解説
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解説
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練習の解説授業
時頼が引付衆を設置した
5代執権の 北条時頼 は、裁判事務を行い 評定衆 を補佐する 引付衆 を設置しました。
また時頼は、 皇族将軍 の擁立も行っています。
評定衆を設置し、摂家将軍を擁立したのが3代執権の北条泰時であったことと比較して覚えましょう。
モンゴル軍が2回にわたって攻めてきた
北条時宗 の時に、 フビライ が建国した元が、日本に服属要求を行いました。
北条時宗がこの要求を拒否したことで、モンゴル軍が攻めてくることになります。
1274年の 文永の役 と、1281年に 弘安の役 です。結果的に、どちらも暴風雨などで元軍が撤退することとなりました。
1回目の 文永の役 の翌年、 異国警護番役 が強化されたり、石築地(石塁)が築かれたりしました。
2回目の 弘安の役 後には、北条定時が 鎮西探題 を設置し、幕府が九州の支配権をさらに強化しました。
霜月騒動を経て、得宗専制体制が確立
この時代、北条氏の嫡流である 得宗 が力をつけます。
それと共に、得宗と主従関係にあった 御内人 (特にそのトップの 内管領 )も力をつけていきます。
その中で、 内管領 の平頼綱と、有力御家人の安達泰盛の間で 霜月騒動 が起こり、平頼綱が勝利したことで、 得宗 専制体制が確立されました。
得宗 や 御内人 など、少し複雑な仕組みについては、中身をしっかり理解して、得点に結び付けられるようにしていきましょう。
では、練習問題で内容を確認しましょう。